水がある。
この水はどこから来たのか。
ずっとずっと昔、地球を形作った隕石の水蒸気が…なんて話は私は理系じゃないのでよくわからない。
しかし、そういった脈々と受け継がれてきた水が今、目の前にあるのだ。
アスファルトの上に点在しているそれは水溜りだし、それがかんかん照りで水蒸気になる。
雨は川になり、湖になり、ひいては水道局が徹底管理した水道水になる。
蛇口をひねった時に、勢いよく流れたそれは私にとって水である。
人類がまだ、洞穴でひっそりと暮らしてる時、岩場の裂け目からにじみ出る雫も水であったし、土色をしたら泥水も水であった。
私は、この瞬間からはい、水ですよ、雨ですよ、いやいや水蒸気ですよ。といったことを延々と考えてしまう。そんな瞬間なんて存在しない。
砂つぶ1つはただの砂つぶだが、いくつ集まったら砂山になるのか?なんて問いがあるけど、そう、瞬間なんてないのだ。
言葉とはその人が感じたことを発声し、明文化したものであって、受け取る人によって全く違う。
クオリアという言葉があるが、私は見る人によって色や味、感じ方は全く違うと思っている。
なんじゃこの服の色のセンス。ダサすぎやろ、って居るけど、その人が感じた最高の色使いであって、自分の目には最低に写っているだけだ。
自分が嫌いな食べ物を、パクパクと食べる人がいるように、そういった感覚というものは全く違ってしまうのだ。
もしかしたら、明日、いや1時間後いや、1秒後でも今生きている瞬間の自分と違うのかもしれない。
これはもう、瞬間恐怖症とでも名付けようか。