増田あるいははてなにおいては、東大生(高学歴)や医学部、研究者といった人の目を引きがちな肩書きが頻繁に登場し物語が語られる。
その際に、”肩書き”「である」ことだけが語られる文章を私は読まない。
その理由は、丸山の論理からは離れるけれど、書き手が肩書きを充分に咀嚼できていないと感じるためだ。
目を引きやすいがために、東大生などを持ちだして論じているにすぎず、文章の要素として扱えていないと感じるためだ。
一方、東大生などがどのようにふるまったのか? について語りながら自説を展開するのであれば、意見に賛同するか否かはどうあれ、読みうる。読んで意味がある。
ということで、東大生「である」文章は読んでいてもあまり意味がないし、書いてもあまり意味がないと思う。
もっと説得力を持った自己の見聞に基づいた肩書きなりタームなりを用いるべきだ。