2014-09-08

である」ことと「する」こと

増田あるいははてなにおいては、東大生高学歴)や医学部研究者といった人の目を引きがちな肩書きが頻繁に登場し物語が語られる。

その際に、”肩書き”「である」ことだけが語られる文章を私は読まない。

その理由は、丸山論理からは離れるけれど、書き手肩書きを充分に咀嚼できていないと感じるためだ。

目を引きやすいがために、東大生などを持ちだして論じているにすぎず、文章の要素として扱えていないと感じるためだ。

一方、東大生などがどのようにふるまったのか? について語りながら自説を展開するのであれば、意見賛同するか否かはどうあれ、読みうる。読んで意味がある。

ということで、東大生である文章は読んでいてもあまり意味がないし、書いてもあまり意味がないと思う。

もっと説得力を持った自己の見聞に基づいた肩書きなりタームなりを用いるべきだ。

東大生である」人がなにを「する」のか? そこに説得力生まれる。

肩書きだけではそれはわからない。

安易東大生を持ちだすと、折角のあなた文章がクソミソファック夢冒険(1987-1990、ディズニー)になってしまう。

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