2014-01-27

知らされぬ者のエゴイズム

誰も許容してくれないことだけど、書き捨てるのは自由だろうから書き捨てる。

別に身バレして困るようなことでもないので、自分の感じたことをそのまま書く。

年末、友人が亡くなった。20歳代前半ならば、若くしてなくなったという枕詞をつけてもおかしくはないんだろう。

白血病が発覚してから、3年間。

状況説明をしだすと冗長になるので省くが、私はその3年間、友人の病気を知って知らない立場を貫かなければならなかった。

そのことが苦しく、憎かった。勿論、友人がその何万倍も苦しみ、もしかしたら五体満足で生きる人たちを憎んだのかもしれない。

友人のことを思えばこそ、自分感情など些細なものから胸に押し込め、いかに友人が心安らかに過ごせるように心を砕くべきだったのだろう。

私は私の立場で出来ることをしたと思う。それは、友人が病にかかっているという事実を、友人本人にも他人にも漏らさず、ただ黙っていることだった。

友人は病気のことを、最低限の人々にしか教えていなかった。それは病気を完治させるという決意があったからだ。余計な心配を掛けまいと周囲を気遣ったからだ。

そして「最低限の人々」の中に私は入っていなかった。しかし、全くの偶然で、私は友人の病気のことを詳細に知ってしまった。

本人は知らない。私は知っている。そんな状態では何もしようがなかった。

もっと会って話がしたかったと思う。他の人がしたようにお見舞いに行きたかったと思う。もっと、私なんかより仲のよい親友らに、そのことを伝えたかったと思う。

そんなきれい事を半分は思い、ただ自分当事者ではないから蚊帳の外で、他の、ちゃんと本人から事情を聞いている友人たちがお見舞いに行ったり、友人を気晴らしに遊びに連れて行ったりなどをしている様子を伝え聞いて、

妬ましく、そして憎らしく思っていた。本当に、ただのエゴイズムだ。

だけど、ずっとずっともどかしくて、自分が何も出来ないのが悔しくて、だけれど何もしないことが最大限の優しさであることもちゃんと分かっていた。

そんなことをぼかして、「私はどうしてガラスの向こう側にいけないんだろう」と呟いたら、「自分で壁を作っちゃ駄目だよ」と、ちゃんと事情を知る人から言われた。正直殴りたかった。

自分立場に酔っている部分が少なからずあった。今は亡き友人にもっと会って色んな話をしたかったという思いは今でもある。

だって、ちゃんと友人の傍にいることの出来た人たちが、私の知らない友人の思い出話をするたびに、もやもやとした良くない感情が顔を見せる。

これまでは「あの子は大変そうだね」と言われ、「今どういう状態なの?」と聞けば濁されていた。

これからは「あの子はあの時こんなことをしていたね」と、私の知らない話をされて、蚊帳の外に置かれる。それが堪らなく嫌だ。しばらく会いたくもない。

こういったものを全て呑み込んで、落ち着いた対応が出来るのが大人なのだろう。

こんな感情にかき乱されることももう勘弁したいので、早く大人になりたい。

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