「金儲けなんかより善いことをしたい、何か社会貢献をしたい」と思う自分がいる一方、
「善いことなんてどうでもいい、金儲けをして贅沢な暮らしをしたい」と思う自分もいる。
これはあくまでも一つの例であるが、このような自身に内在する一見矛盾した関係にある二つの自分の存在に対して自分は深く悩んでいた。
自分の軸はどこにあるのか?そんなに優柔不断でいいのか?というように。
そこで、悩みを解消すべく、この自己矛盾の正体について考えてみようと思った。
まず初めに考えたのは、
仮に自分を中心とした円形に広がる輪(自分→家族→友達→所属するコミュニティ→所属する組織→…という広がりをする輪)
があったときに、「内側から外側に向けて優先度をつけて物事を考えていく自分」と、
「外側から内側に向かって優先度をつけて物事を考えていく自分」という二つの自分がいるのではないか、
それこそ矛盾する二つの自分の正体ではないか、というものである。
しかし、すぐにそれは違うと思った。
そもそも「外側から内側に向かって優先度をつけて物事を考えていく自分」なんて存在しない。
時と場合によって自分と対象との距離が変化することはあるけれど、
人は、自分を中心に輪の内側から外側に向けてでしか物事を考えることができないからだ。
ただ、そこでふと思ったのは、中心となる自分がただ一つとは限らないということだ。
人は自分を中心に輪の内側から外側に向けて物事を考えるが、中心には様々な欲求を持つ自分がいる。
そして、何か物事を考える際、その時の自分の欲求によって判断基準が左右される。
食欲、睡眠欲、性欲、購買欲、顕示欲、愛したい欲求、愛されたい欲求、悪意、そして善意も欲求の一つであるが、
これら判断基準を左右する「欲求」こそが自己矛盾の正体なのではないか。
つまり「金儲けなんかより善いことをしたいと思う自分」と「善いことなんてどうでもいい、金儲けをしたいと思う自分」
が共存するのは矛盾しているわけでもなんでもなく、
そう思う自分にいたるまでに生じた欲求がその時々によって異なるから、ということである。
例えば、誰かから善意を受けたときに自分の中に同様の善意の欲求が生じ、
それが自身の全体欲の大半を占めた場合、「善いことをしたい」と思う気持ちが強くなる。
逆に誰かから悪意を受けたときに自分の中の善意の欲求が削られ小さくなった場合、
「善いことなんてどうでもいい」と思う気持ちが強くなる、という具合に。
ここではあえて「二つ」としているが、実際には欲求の数だけ異なる自分がいるのだ。
ある欲求が満たされると全体欲に占める割合が小さくなり、
代わりに違う欲求の割合が相対的に大きくなることでその欲求が強くなる。
全体欲に占める様々な欲求の割合の変化によって物事を考える際の判断基準にも変化が生じ、
なるほど、と自分の中で合点がいった。
そしてさらに考えた。
様々な欲求を持つ人ほど多くの自己矛盾を抱えるのかもしれない。
満たされない欲求の数だけ判断基準に変化が生じるからだ。
また、欲深い人ほどその自己矛盾に悩むのかもしれない。
満たされない欲求の分だけ判断基準が変化する頻度が増し、それに伴い、物事を不要に多く考えてしまうからだ。
「自分が様々な欲求を持っていて、且つ、欲深い人間だから」なのではないか。
あれもしたい、これもしたい、でも何も出来ない。こういった焦燥がさらに悩みを加速させている。
でも、それならば悩みを解消するのは簡単だ。
欲求が多様性に富んでいるにせよ、欲深いにせよ、一つ一つの欲求を満たしていけばいいのだ。
そうすれば自己矛盾は小さくなり、物事を不要に多く考えることもなくなり、悩みも減るだろう。
では、どうすれば欲求を満たすことができるか。
残念ながら今の自分では多くの欲求を直接満たすことができず、その前段階である「準備」しかやれることはない。
それが結果的には多くの欲求を満たすことに繋がるからだ。
つまり、少なくとも今現在の自分においては、勉強することこそが、悩み解消への一番の近道なのである。
このようなことを考え、勉強机に向かったのであった。