実際、事業仕分けのどの部分の決定が該当するのかを指摘するのもムズカシイわけで、漢方が外れるっていうのは一体どの決定を指して言うのか、マスコミもわからないから報道しようがないだろう。
ベトナムみたいな例外を持ち出されてもなあ。
核を絶対視するのはどこも一緒。アメもどこも「てめーナイショで核作ってねーだろうな」と血眼じゃん。
核を持たない国は確実に核の餌食になる、これは完全な共通認識だと思っていたけど、違うのかな?
ブーツはえろい。
ブーツはえろすぎる。
あまりゴタゴタしていないストイックなブーツは最高にえろい。
もうふざけんなってくらいえろすぎる。
ブーツを履くおんなのこは、俺からえろい目で見られている事を覚悟すべきだ。
俺は溶けていく。
ベトナムは、アメとケンカし、中国とケンカし、核打ち込まれてませんが。
核がない国が確実に打ち込まれているなら、なんでまだ北朝鮮ってあるんですか?
右の連中も左の連中も、核や軍事といったものを絶対視してませんか?
http://4b.yahoo.co.jp/contents/0912/special/theme04/page2/
この1年で何人の女のコと友だちになりましたか? 「ひとりもいない」なんていう人はきっといないと思うんです。環境のせいで出会いがないと嘆く前に、まずは身近にいる女のコのステキな面を探すことから始めてみては?
何を思えばいいか、なんてのを他人に聞くのは良く分からないなあ。なんか変な道徳意識に捉われてない?
当事者以外は戦争を語れない、と思ってるのかな。それはそれで窮屈だと思うんだけど。当事者の経験聞いて、何か思ったり考えたりするぐらい自由にすればいいじゃん。というか、戦争全体を理解するなんてのは当事者にもまず不可能だし(群盲象を撫でるが如しって奴)。増田が思ったように語ってもいいと思うよ(もちろん、戦争の各分野に於いてそれぞれ専門的な知識が要求される分野はあるので、そういう領分は侵さない程度に)。具体的に批判も受けてないうちから増田が「戦争を知らない私も知ってそれを理由に平和を求めるべきなのか、求めていいのか」とか考え出すのはちょっと考えすぎなんじゃないかなー。
あと、知ることや考えることだけで問題は解決しないだろうけど、知ることも考えることもないまま問題が解決することは一層ありえないと思うので、知ることについて「どんなに誠実であろうとしても限界があるじゃないか」という発想の扱いには気をつけた方が良いと思う。「だから知ること・考えることに意味がない」にはならぬようにね。
原爆系の話は、そろそろなんとかならないのかと思うんだけどな。
60年前の話だろ。誰も生まれてねーよwっていう。
それで「核は悲惨だから禁止」とかって。いやいや核が無い方がもっと悲惨だから。核の無い国は、確実に打ち込まれるから。
だから打ち込まれないうちに核作ろうってのに、未だに反対派がいるのはどうしたことか。
ていうか「仲がいい」ということにテレビゲームだかアニメだかの「材料」が介入することがそもそもおかしいんよ。
そういうのがなくてもやり取りだけで楽しい、というのが本当の「ウマが合う」ことだからな。
「口説いている女性は実は男で70歳のおじいちゃんだった。」というネタも最早SFでは無くなったようですが、
そうなれば、『攻殻機動隊』ですよ。この辺のネタはアニメじゃカットされてますけど、
コミック版では草薙素子は人形使い(AI)にちゃんと口説かれてから結婚してます。
(劇場版アニメじゃかなり解りにくいのですが、「草薙素子はAIと結婚しました。」ですよ。あの結末。)
彼女の1つ目の質問「何故完全無欠のAIが人間と融合したがるのか?」という質問に彼(AI)は
「カラミティを想定した”ゆらぎ”が欲しいからだ。AIは幾らコピーを増やそうが、ウイルス1つで壊滅する危険性がある。
”ゆらぎ”が無いからだ。ヴァージョンアップだけでは壊滅のリスクは孕んだままでね。」
(という内容だったと思う。コピペでは無い。)と簡潔に答えました。
2つ目の質問「それが何故私なのか?」という質問に対しては...。人間の回答も色々ありましょうけど...。
AIは「縁が有ったからだ。」と答えました。彼女は怒るのですが、AIはこう言って納得させました。
「縁は塩基質と同じでね。互いに身知った時点で総ての意味は置き換わる。
能動/受動では無く、相互受動の”関係”に。こればかりはどうしようも出来ない。」
「まさかプロポーズの言葉が”縁が有ったからだ”とはねぇ。」と彼女は皮肉るが、
その後天使が舞い降りるシーンは有名だ。(劇場版ではココに一気に飛びます・笑)
〜T/H
そういう法律を作る事自体が仕事を発注してることになるんでしょ。
それは何のためかと言えば金を儲けるため。
特殊法人じゃないけど元官僚がやってる政府系シンクタンクなんて、発注してくる役所に都合のいい統計やデータを献上するためだけのところだからな。そんなのがごろごろある。
「減少傾向」なんて「傾向」ごときじゃなんの評価にもならん。限りなくゼロに近くなってから初めて評価、というか本来あるべき状態になるってだけ。
とある女生との会話を抜粋。年はたぶん30前後。
女「増田さん、若いね。何歳?」
俺「19歳です」
女「若い!10代じゃん。遊びまくりでしょ?」
俺「いやー、どうなんですかね」
女「私ね、10代の頃はあんまり遊んでなかった。セックスも好きじゃなかったし」
俺「へ、へぇー」
女「けど、今は大好き」
俺「そーなんですか」
女「こないだもBFと混浴温泉行ったの。口ふさがれて、無理やり。たぶん、他の人に聞こえてたと思う。やっぱりムードよね、セックスって。燃えるよね」
俺「あはは。ですよね」
女「あたしねー、酔ってセックスすると『どう?あたしのアソコどう?』って聞いちゃうのよね。くくくくw」
俺「あはは」
女「日本人はね、変態ばっかり。あたしちょっと前にパリに留学してたんだけど、フランス人もアメリカ人もただストレートにやるだけ。情報が少ないから、知らないのよ」
俺「へぇ~……」
俺「は、はぁ……」
こっちがドン引きしてるのに気づかず下ネタトーク全開。初対面なのに。
ちなみにケータイの住所交換しましたが、やり取りはしてないです。
今日の「亀井・竹中対談」を見ればわかる通り、ネット上じゃなくたってそんなもんなんだよ。
みんな自分の意見を一方的に言うだけ。それが正しいと思い込んでるからね。
ていうか大人は生半可なことでは意見を変えないし、そもそもそうしようという気がさらさらない。
政治というのは議論するものでなく行動するものだと思っていたが?
月並みだが、ゲームやマンガといった趣味が合うので馬が合った。
ドラクエやFF、ジャンプ、マガジンなど在り来たりな共通のツールによって趣味嗜好、話題を共有していたんだ。
ところが、数年前からお互いにPCとネットに触れるようになって、趣味のすれ違いが多くなった。
ツレはアニメやギャルゲにハマりだし、それを俺に押し付けてくる。
いくら親友のすすめでも、好きになれんもんは、なれん。いい加減、無理して話題を合わせるのも辛い。
仕事の忙しさを理由にあまり連絡を取らなくなって、次第に疎遠になった。
いま、数少ない信頼できる親友を失いつつある。
奴とはそれまでの関係だったということか?
追記
http://anond.hatelabo.jp/20091128193554
きっとその友達も今まで守ってきた境界線を
守るも何も、本人が望んで趣味を掘り下げただけだしなー。
性格が捻じ曲がったり考え方が変わったりはしてないよ。
http://anond.hatelabo.jp/20091128200019
そういうのがなくてもやり取りだけで楽しい、というのが本当の「ウマが合う」ことだからな。
何かわかった気がする。ありがとう。
http://anond.hatelabo.jp/20091128201249
惜しいと思うなら共通の趣味、話題を見つけるしか道は無かろう。
ちゃんと話し合って折衷案を出してみようかなと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20091128203715
それでも実家に帰ったときは、なんもない住宅街の曲がり角で(あの自販機のとこね!見たいな感じで)待ち合わせをして一緒に出かけたりする。角の向こうから彼女が手を振って現れると、あー小学校の時も中学校の時もこうやって待ち合わせしたなあと懐かしく思い出す。
趣味や場所、時を経ても変わらないのが本当の親友の証ってことかな。
またそういう流れになって苦痛を感じたら話し合ってみる!
面白い発想ではあるけど、それでいじめっ子を道連れに出来るってのはどうだろ。
どっちかというと、その手の道連れを求めた動画といじめられっ子に
冷笑・嘲笑が浴びせられる可能性の方が高いんじゃないかなあ。
今だって自殺で飛び降りた人を本気で心配してるような人、ほとんどいないっぽいし。
既にブコメで指摘があるようだけど、そういう配信を見た人間が、
正直、そうやって他人に復讐を任せるぐらいなら、
直接ナイフや爆弾や毒ガス使って殺そうとする方が確実だなーと思う。
(そもそも復讐してどうすんだよって話だが)
ただし出方を伺ってね。
遊びなのか本気なのか解らないのが恋愛じゃないの。
不安ならば疑いをかけなくてどうする?
振って「相手が」反省するんなら効果は有り。反省しないのなら単に好かれて無い。
振られて「自分が」反省してばかりでは詰まらないだろ?恋愛なんてさ。
http://anond.hatelabo.jp/20091128091944
追記:〜T/H(笑)
「にんげんをかえせ」という題の、広島の、原爆や戦争を書いた、ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ。
それを朝ソファで読んでいて、寝て、リビングのテーブルに置いておいたら母が読み始めた。人と本を共有するのが苦手な私は「なんでこんな本読んでるの」という質問を予想して身構えて、「日常生活に感謝しようと思って」という理由を用意したのだけれど、日常生活に感謝するために戦争に触れるというのは一体、いかがなものか。
他人の痛みを利用するようであんまりじゃないかと思う。戦争を知らない世代の、過保護に扱われることに慣れきって平和ボケした阿呆の甘ったれた駄々を、隣に置いていいものじゃないだろうに。苦しんだ人苦しんでいる人の苦しみはそんなふうに扱われていいものじゃないだろうし、私の日常生活もまた、本来そんなふうにして感謝されるものじゃないはずで、けれどじゃあ、平和を求めて書かれたんだろう詩を、どう扱えばいいんだろう。
読んで泣いて悼んで平和を希求するのも同じで、なんだか白々しい気がした。自分の白々しさを広げて見ているんだろうか。戦争の対義語は平和だけれど、だから全くの別物であって、2つを関連づけて語るのはおかしいんじゃないか?戦争が悲しかったことと平和を求めることと、当事者が繋げるのは「敵」を憎むのと同じくらいもっともだけど、戦争を知らない私も知ってそれを理由に平和を求めるべきなのか、求めていいのか。例えば今日食べた食品の多くが輸入品で、おいしかったから、世界が平和でありますようにと、祈るのとどちらが良いのか。
歴史も詩集も食事も生活の1つの部分として、ああ悲しいことがあったんだなと受け止めて、どこかの国の食材を食して、殴らず殺さず生きればいいのか。戦争を知らないと言われると痛い。誰も知らない世界を求めているはずなのに、求めるがゆえに忘れるな忘れるなと恐れて、教育して、された私は知らないまま、知った気になって一緒に何か訴えるべきなのか、知らないが酷いことなんだろうし明日の朝ご飯はバナナがいいと駄々をこねた方がいっそ誠実なのか、中東なりアフリカなりに行って見て来ればいいのか、隣人と殴り合いの喧嘩でもしてみればなにか悟れるのか。
そもそも私の「戦争の(他人の)苦しみをどう扱えばいいのだろう」という発想も不幸自慢の横行する平和の中で育ったもので、苦しむ人は苦しみなんて放って捨てていたんじゃないかと、想像してみもする。知らないけども。大体いくら誠実でありたいと思ったって、知ることや考えることでどうにかなるものばかりでもあるまいに。戦争プロパガンダに乗せられるな、人を悲しませてはいけない、痛めつけてはいけない、優しくあれと、知っていればそれでいいんだろうか。紛争地域に愛の手並びに金銭的援助、啓蒙活動への参加、賢い消費者であり、倫理道徳を順守し、思いやりと礼儀をもって生活をしていたら、なんか気持ち悪くない? 皆がそうだったらそりゃ平和だろうけど、もはや平和ではないというか、やっぱりなにか、すごくずれてる。戦争があって、人が死んで、悲しんで苦しんでいるのだけど、私はなにを思えばいいんだろう。