国民には3つの義務があるとされる。
子供に教育を受けさせる義務、労働する義務、税を納める義務の3つだ。
なぜこのように3つに分類されるのかはよくわからないけど、前者2つは義務であると同時に権利とも言い換えることができる。
しかし、税を納める権利、とはなかなか言わない。
では、ひとが税を納める義務に対応する権利とでもいうべきものはどのように表されるのだろう。
それはおそらく、公民権というものだと思う。これは辞書的な意味での選挙権や被選挙権といった参政権の他に、広い意味では警察や病院、道路や学校など社会生活上の公的サービスを享受する権利というものも含むとここでは考える。
これらの幅広い公的サービスというのは、市場原理に基づいた経済活動ではなかなか満たされないニーズだとされる。みんなにとって大事だけど、儲からないと。だから政府のような公的部門がみんなを代表して、税というかたちで財源を徴収して、一括的に公平なサービスを行う、とされる。
だから、ここで“納税義務と公民権”というかたちでフェアな対応関係が存在することになるし、その執行する主体である政府は、納税者に対してできるだけフェアになるように行政活動を行わなければならない、ということにもなる。(もうひとつ、税制にはお金持ちと貧乏なひとの資源の再配分という効果もあるのだけど、ここではさておき。)
これが一般的な民間のサービスだったら、コストとパフォーマンスの対価的関係がわかりやすい。払った分が、当然、商品やサービスという形で還元される。しかし、行政活動はなかなかそれが見えにくい。(そもそも行政法的思考からすると、税には公共サービスとの対価的関係は存在しない、という考え方もあるが、それはさておき。)
政府がお金を無駄遣いして、納税された分に対して十分な公民権をペイしてくれないかもしれない。とすると、この納税義務と公民権のフェアな関係の正当性はどうやって担保されるのだろう。
これは、三権分立のチェックアンドバランスの考え方からすれば、行政権に歯止めをかけていくのは、立法権や司法権である。一般の人は司法権にほとんどタッチできないから、やはり行政活動に対するメジャーな歯止めの手段としては立法権、つまり参政権の行使というのが一番身近なものだと思う。
というか、逆に言えば一般的には選挙での一票でしか行政に対する自らの意思表明を行えないのです。
ここが今回の考慮すべきところだと思うのです。
つまり、この国で普通に生活するだけで、所得税や固定資産税、消費税やガソリン税といった様々な納税行為が強制的に課されるにも関わらず、それに対する異議表明は、例えばデモやオンブズマンによるチェックなどもありますが、究極的に実効性があるのは選挙での一票という、非常に限られたものである点です。
あまりに当然と言ってしまえばそれまでなのですが、僕には納税義務という大きな負担と、その見返りたる参政権、異議表明のための権利の小ささがバランスとして釣り合わないような気がするんです。
ちょっとうがった見方をすれば、民主的選挙という装置が存在しているがゆえに、その納税義務がいつのまにか、いつも正統化されていまっているのです。「お前たちが決めた政治家の判断だ。文句あるまい。」と。
ただ、逆に今以上に一般のひとたちに税の使い道を決める裁量権を与えるから自分たちで決めてください、というようなシステムになったとき、はてどうしたものかと、もっと困ったりしそうだな、と思ったりもします。
つまり、国民は税さえ払っていればあまり細かいことを気にせずに・タッチせずに自動的に安全、安心を得られる、というのも行政のひとつのメリットでもあると思うんです。
このように、納税義務とそれに対する異議表明手段のアンバランスさというのは不条理に僕は思うわけですが、かといって税の使途を細かく裁定するような手間や専門複雑性の問題から、その裁量権の行政府への大まかな負託というのもまた、あまり軽視していいものでもなく、これがまた問題を難しくしているのだと思います。
行政相手に裁判できるんだから選挙だけが異議申し立てで司法は一般人はタッチできないというのは違うのでは?裁判は勝てるとは限らないから実効性低いというかもしれないけど、選挙...