世の中の人間は自分以外の人間に全くと言っていいほど関心がない。
追い詰められて自ら命を絶つくらいなら、何もかも捨てて逃げればいい。
あなたがいなくなっても何も問題はない。
ほとぼりが冷めたら何食わぬ顔で戻るか、何か新しいことを始めればいい。
あなたのことには誰も何も関心がないので、恥ずかしがることは何もない。
というようなことを常に意識していると生きていくのがかなり楽。
http://anond.hatelabo.jp/20070224094417
頭のよさを隠して目立たないようにする処世術なんて足枷以外の何物でもないんだよ。それに思い当たったときは愕然としたね。目立つのが嫌だったし、「頭がおよろしいことで」って言われるのが癪だったから、余計な口出しはしないように、しないように十何年も暮らしてきた。その行動は全くの無駄だった。俺はもっと傲慢に、頭のよさを安全に剥き出しにする訓練こそを積むべきだったんだ。
痛いほどわかる。こういうところを早めに悟れるかどうかが、結果を出せるかどうかの境目だと思う。頭が良くてもそれを示せない奴より、多少自信過剰な奴の方がよっぽど使える。それが現実だ。
私は旧帝大の大学院を出た。元々研究者志望だったし、それなりの努力も積み重ねてきた。優秀な奴ばかりが揃っている大学だけれど、研究室に入った頃はホープ的存在だと思われていたらしい。少なくとも、助教授が先輩に「今度入ってきた彼は優秀だよ」と話していたというのは耳にしたことがある。
ところが、私はこれといった実績も残さず、平凡な院生として研究室を去った。研究者への道は早々に断たれ、現在は平凡な新米サラリーマンでしかない。
その一方で、学部生の頃には勉強が好きでもなく、試験前の一夜漬けで単位を稼いでいただけの奴らが、どんどん論文を書いて実績を残したりしている。彼らは既に現在世界を舞台に活躍しつつある。釈然としないが、それが現実だ。
私と彼らの明暗を分けたのは何かと考えるとき、どうしても才能とか努力以外の点が目についてしまう。
率直に言って私に才能がなかったとは思わない。努力もそれなりに重ねてきた。しかし、その努力が私の場合はことごとくピントはずれだった。意味のない努力で時間と労力を浪費した。そして努力すればするほど、自分の力不足を痛感し、恥じることとなった。この状況を打開するまでは何も言う資格はないと思いこみ、やりたい研究テーマや悩みについて率直に相談することを避けてしまった。結局、空回りしたままやりたいこともできず、大半の時間を浪費した。そしてその時間は単なる苦痛な時間でしかなかった。研究に入る前の段階で力を使い果たしてしまったのだ。
一方で彼らには失うものがなかった。もはや不勉強は隠しようもなく、そこで開き直ってやるしかない。手取足取りでも何かをやらなければいけなかった。そこで彼らは平気で先輩や教官に頼った。それでも彼らのプライドが挫けることはなかった。知識も経験もないくせに、やりたいことだけは一人前に主張した。「努力していなかったのだから今できないのは当然、でも俺はやればできるんだ」そう思ったことが彼らの勝因だったのだろう。そして一旦手をつけてしまえば、日頃培った一夜漬けの能力でなんとでもなる。そう、一夜漬けができることも重要な能力の一つなのだ。それを自分で認めてやることこそが重要なのだ。
仕事を始めて三年目くらいから、俺の態度は目に見えて傲慢になったと思う。「どうしてこんな非効率なやり方してるんですか?」みたいなことを堂々と言うようになった。
まさにこういうことができるかどうかが、能力を発揮できるかの境目なのだろう。
実際、先輩や教官にしつこく教えを請いまくることはよく考えてみれば学生の本分なのだ。授業料を払っているのだから、「教えてもらって当然」ぐらいの貪欲さでちょうどいいのだ。何かあれば偉そうに口を利いてみるのがよい。やりたいことを主張されなければ、教官とて指導のしようがあるまい。言うだけ言ってみればいいのだ。失うものは何もない。主張した結果「それは無理だ」と言われても、「いやあ、無理っすか。ははは」と笑っていればそれですむ。そして反省点は心の中だけにとどめ、次のチャンスを狙えば良いだけなのだ。
私はそれがついにわからなかった。
現在の職場では、二度と大学院での過ちを繰り返したくない。そう考えて色々試行錯誤しているが、二十数年間にわたって染みついた習性は容易に直るものではない。思えば、私は今まで所属していたほとんどあらゆる集団で、「彼はもっとできるはずだ」と言われながら、なかなか実力を発揮できなかった。どうやらその原因はこのあたりにあったのだろう。何も失うもののない状況なのに、人前でおどおどしてしまって言いたいことが言えない。もちろん得をした点もあり、「素直で礼儀正しい」という評価を失ったことはない。しかし、若い奴は生意気で楽天的なくらいが本来ちょうどいいのだ。少なくとも、能力を発揮したければそうすべきだ。
「学歴がある」=「頭が良い」っていうのは間違いだと思う。頭が良くて学歴がない人はたくさんいるだろう。
そもそも「頭が良い」とはどういうことか。定義付けが必要ではないか。「物事を自己に入力する」+「物事を理解する」+「種々の物事の関係を整理する」+「思考を出力する」という一連の処理をする能力が高いことが「頭が良い」ということだと思う。処理可能な物事や処理速度には、働いている脳と身体の機能の差(これは障碍がなければ「天才」を除いて微小だと思う)および訓練による差がある。
「高学歴」の人は、教育システム(入学試験システム)への適応能力が高いということになる。もちろん「高学歴」の人にも私の定義する「頭の良い」人もいるけれども、学歴は、頭の良し悪しの基準にはならない。
ちなみに、昔CTを撮ったとき「よい頭だ」といわれたことがある。
http://anond.hatelabo.jp/20070224023529
暗算するには
log (1 + x) = xにlogとlog_10の変換を組み合わせればいい。
log_10 (x^a)の値が出れば、うちの大学の教授曰く理系ならば主要なlog_10の値(2,3,5)を覚えているのは当たり前らしいので。それを適当に当てはめてx^aの値を求める。
http://anond.hatelabo.jp/20070224114115
マックでよく使われてるメールソフトのほうがスパムフィルターが高機能という意味かも知れない。実際使ったことないのでどれが高機能化はわからんけど。
やらなくていいことを付き合いで残ってやったりする奴が
こういうのは見たことないから全然実感わかない。本当に労働時間が大幅に減るほど多いだろうか?やらなきゃいけないことを残ってやる奴ならよくいるけど。
でも「贅沢なこと」というのは「やらなくていいこと」でもあるから同じことを言い換えただけのような気もする。
結局生きていくのに必須でもないことまでやろうとするから長時間労働になるって事だな。
正直な話、学歴コンプレックスはほんと対処が大変ですを読んで思い出した。
俺「そうですよ」
俺「あ、東大です」
床屋「・・・ごめんなさい」
えぇぇぇぇぇ(;´Д`)・・・と思ったよ。なんだ「ごめんなさい」って。俺はあなたに過ちを犯させたのか。
確かに一瞬言うの躊躇ったよ。微妙な空気になりそうだと言う予測がまさにそれを現実にしてしまった。
もっとエリート意識丸出しの鼻持ちならないヤツにでもなってれば良かったのか。
人は見かけによる http://anond.hatelabo.jp/20070223174557
俺の経験上 http://anond.hatelabo.jp/20070224031816
見ためを判断しているのはいつでも自分。似たタイプの見た目の人が嫌いってのは良くある話。
そして嫌いな見た目が突然変化するって事もそうはない。
見た目が同じに感じると、当然バイアスがかかる。
それが他者を強く批判する事になる。
だんだんと相手が失敗しないと気がすまなくなってくるだろう。そういう見た目の人が失敗しないのが我慢できなくなってくるはずです。
そして失敗させるようにしむけるようになる。
そしてすべてが満足という事になるのでしょう。
やがて他にもそれは影響していく。
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C562789584/E20070222210637/index.html
マックの方が使いやすいし、きれいだし、スパムもウイルスも圧倒的に少ない。なんでみんながMSに固執するのか、正直わからない。
知り合いでWINもMACも両方使ってる人がいるが、その人はまっくのほうが多いといってた。この人はWINDOWSをどれくらい使ってるんだろ。まさか使ってないのに昔のイメージでウィンドウズの方が多いとか思いこんでたりしないよね。それに対応ソフトの多さや互換性考えたら、うぃんどうずのほうがいいかも。ぎざぎざ文字のほうがよさげに感じる人もいるし。まっくのデザインとかがいいと思ったことはないな。周りにもいない。
旧帝大出です。
小学校の頃から頭はよかったから、やっかみは飽きるほど受けてきたし、頭のよさを謙遜する処世術も自然と身に付いてた。そういう技術は親戚の家でメシを食うときとか、飲み会の席なんかでは有効だと思う。
でも、社会に出て仕事するようになってから気づいたよ。そんな謙遜なんてクソの役にも立たない。学歴に意味なんかない。仕事はできるか、できないかの二択しかない。頭のよさを隠して目立たないようにする処世術なんて足枷以外の何物でもないんだよ。それに思い当たったときは愕然としたね。目立つのが嫌だったし、「頭がおよろしいことで」って言われるのが癪だったから、余計な口出しはしないように、しないように十何年も暮らしてきた。その行動は全くの無駄だった。俺はもっと傲慢に、頭のよさを安全に剥き出しにする訓練こそを積むべきだったんだ。
仕事を始めて三年目くらいから、俺の態度は目に見えて傲慢になったと思う。「どうしてこんな非効率なやり方してるんですか?」みたいなことを堂々と言うようになった。嫌われたり妬まれたりしてるだろうけど、そんなのはもうどうだっていいよ。俺はさっさと仕事終わらせて帰りたいんだよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070223011440の人に言っておくけど、頭のよさを揶揄されるのが嫌だからって自分の行動を縛るのは、単に馬鹿馬鹿しいだけじゃなくて明確に有害だよ。堂々としてりゃいい。こういうことを言ったり書いたりすると反感買うだろうし、脊髄反射なブクマコメントだっていっぱい付く。でも、そんなのわかりきった反応だし、実に下らないことだと思う。[俺は頭がいい]タグを使う奴らって本気で馬鹿じゃないの。
あと、仕事では俺より頭がいい人もたくさんいる。話が早いし、俺が間違ってたら堂々と指摘してくれるから助かってる。そういう人たちと一緒に仕事できるのは幸せなことだと思う。
やらなくていいことを付き合いで残ってやったりする奴が
完全に居なくなれば大分軽減されると思うよ
贅沢とかは人間関係のあとに考える話だよ
博士になるんなら
日常生活のふとしたときにその研究してることがまず思い浮かぶくらい
それくらいでないとモチベーションとしては持たないと思うよ
少なくとも外の人がどう思うかなんて考えてしまうようなのは向いてないよ
そんなの修士やってれば気づくだろ?
可哀想としか言いようが無いな
そもそも修士程度である程度分かったとか思ってるのも問題だが
http://anond.hatelabo.jp/20070224013733
夜遅くかえるのが嫌なら残業がない会社か派遣パートをやればいいのに。給料にただわらないならみつかる。長く働かないといけなくなるのは贅沢しようとするから。いくら技術革新があってもなかなか労働時間が縮まらないのはドンドン贅沢しようとするから。昔みたいに携帯もパソコンも使わず、子供に習い事や塾もさせず、旅行・外食せず、マイホームマイカーブランド品も買わないならそんなに高い給料でなくてもやっていける。仕事が好きな人や贅沢したい人がいる限り「みんな」が5時間労働になる社会なんかやってこない。
そんなの「善意じゃなく書いたままを解釈したら○○という論理破綻が有る。善意で解釈したら○○と解釈できる」と双方の視点で書いてあるんだから、どっちでもないじゃん。
「善意じゃなく書いたままを解釈したら○○という論理破綻が有る。善意で解釈したら○○と解釈できる」
「後者に『善意で解釈したら○○と解釈できる』と書いてあるじゃないか」と言われる。
双方の視点の意見を書くのはいいが、前者の矛盾を後者で補うのは違うんじゃないか?
双方とも別の視点からの意見なんでしょ?
そのまま素粒子にしがみついていても、もっと深い絶望があったのでは。
研究にしても仕事にしても私生活にしても外界に対する興味がなければつまらないでしょう。
早く大人になれるといいですね。
噴いた。いや、それは修正して消したほうがいいんじゃまいか苦笑
エイベックスUZEEEE
そだね。
増田。ネタなのかもしれないがマジで議論のトラバのチェーンが続いたりする一定の人気ジャンルがある所。
増田。たまに言葉が荒い人が乱暴に投稿したりトラバ記事を投稿する所。
増田。匿名、カオス。だけれども現実はその逆なのかもしれない所。
増田の空気。それぞれのテリトリが重なっていたり反発しあったり。
増田、所詮全てが衆愚の場所、自身が個として集団と独立していようがそこは
歿
にゃんっ…
芸術がお仕事という名目で出来るのか。あほみたいにそれに熱中できるのか。
岡本太郎みたいに爆発だなんて考えはもたないけど、真摯に芸術と向き合えるのか。ある程度俺も人間として前よりは深まってきたと思うし取り組みてーな。
俺も何か自分が向き合えることを取り組むかな。
母校東大へのこだわりが強く、後輩議員や新聞記者たちに学歴を事細かに聞くので
非常に嫌われていた。
早稲田大学出身の竹下登と竹下派経世会をそれで敵にまわした。宮澤が竹下登と初めて会ったときに「(東大法学部の)何期生ですか?」と尋ね、竹下は「早稲田です」と返した。そして宮澤は「じゃあ、政経(政治経済学部)ですよね?」と言い、竹下が「いえ、商学部です」と返したところ、
宮澤は竹下のことを鼻で笑ったという。
また、温厚な竹下が、宮澤から「貴方の頃の早大商学部は無試験だったそうですね」といわれたことを
「許せない」と言っていた
というエピソードを、佐々淳行が伝えている(『後藤田正晴と十二人の総理たち』)。
所属する宏池会の親分であった大平正芳(東京商科大学(現在の一橋大学)出身)さえ
宮沢に好意をもてずにいた事は広く知られている。
とはいえ、最近では昔のような東京大学の圧倒的優位の時代は終わり(宮澤以降の首相は現在まで8人連続で私大出身者)、
例として、ある人が難関大学卒であった場合、その人が学力においてだけでなく、人格的にも優れてると思い込んでしまうケースが挙げられる。
また、有名人やタレントを通じたCMや広告がその商品やサービスを実際に使ったりみたりした事がないにも関わらず、良いイメージを与える。
それによって購入意欲を刺激したり、購入したりする。