学生になんか戻りたくない。
なんで毎日あんなに勉強できるの? 家に帰ってまで課題っておかしくない? それに加えて夜はアルバイトだって? なんでそんなカツカツの仕組みになってんの?
1日8時間労働+そこそこ残業で暮らしてける社会人ってよくない?
ああ、学生に戻りたくないよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070223172044
この記事を読んで思ったことを、全く世間を知らない学部生が書き散らしてみます。
人は他者と関わりを持たずして生きるのは難しいので、他者との比較は不可避なものだと思う。コンプレックスなんてものは、他者との差異性が生み出すもので。けれども人は、差異性の中で自己を確立出来るもの。そしてその自己確立の過程においては、建設的な妥協というか自分に折り合いを付けることが必要だと思う。
タイトルは、大学で見かけた就活冊子に書かれていた就職支援室長だったか誰かの言葉。
私の通う大学には優秀な人が多く、今まで受験という競争を勝ち抜いてきたこともあって自信のある人が多い。そんな大学生にとって就職活動という存在はちょっと厄介な存在である。多様な価値観の中で、自分探しをし、自分にとって適職とは何かを探し、面接で何を言われても就活を頑張る。思うに、就活とは建設的な妥協を促してくれる重要な下地になっている。
さて、何故就活の話を出したかというと、人生には就活のような建設な妥協を促してくれる場面がちょくちょくあると思うからである。
幼少期、父が「人は生まれて一番初めに知覚する限界は、肘の関節が一定方向にしか曲がらないと気付かされる時である。」などとわけのわからないことを言っていたのを記憶しているが、確かに人は己自身の限界を感じながら生活をしている。例えばスポーツだったり、受験だったり、恋愛だったり、就活だったり、仕事だったり。自分自身の力ではどうしようもないもの(往々にして他者か環境なんだけど)の存在を知らしめさせられ、どうにか体の良い言い訳を探す。「やれば出来る」は天才の戯言であり、凡人にはその言葉は当てはまらない。「やっても出来ない事がある」という言葉の意味を否応なしに理解させられ、それでもなお自己肯定に拘泥する。その過程において建設的な妥協がなされ、それと共に自我が形成されていくと思うのだ。
話は戻って。
このエントリーを書かれた方は、学業に関してそういった状況を全く与えられずに修士課程まで出たということになる。学業に限って言えば、上記に挙げた受験や日々の学生生活において、他者との比較がなされ、限界を知ることになる。本来ならば、そうなるはずである。
私も大学に入って、世の中にはこんなに凄いヤツがこんなにもたくさんいるのかと感心した。一応、高校時代は頭のいいキャラで通っていたが、大学に入ると下から数えてすぐぐらいの頭。それでも他人は他人だし、わざわざ他人との比較の中にだけ生きる必要は無いと思ってるので、コンプレックスというのを感じたことはあまりない。まあ、大学生活において友人達の聡明さに感心することはしょっちゅうだけれど。
しかしながら、比較対象が全て自分よりも下(何を基準にするかは不明だが)と自身が認識するような存在であった場合、優越感は抱いても劣等感を抱くことは極めて少ないであろうことが容易に想起される。価値基準に多様性を求めない限り(というか、この人は頭の良さという単一の価値基準しか持っていなかったのかも知れないが)、この人は「どうすればまた輝けるのかを」見つけられない気がする。彼の言う「輝く」が「優越感を抱く」を指しているのであればなおさらであろう。
優越感を抱くこと自体には多分、それほど問題は無い。人間関係を阻害するぐらいでなければ、鼻にかけるのもそんなに問題ではないのかも知れない。ただ、個人的に問題だと思うことがひとつある。優越感を抱いた人は、肥大した自我を持ちやすいということだ。かつて自分自身も肥大した自我を抱いたことがある。いや、正確にはまだ抱いてはいるが、それが比較的自分自身の身の丈に合ってきたといった方がよいだろう。兎も角、肥大した自我の存在は絶対的である。自分の知覚する世界において、ほぼ万能。一種のナルシシズムといえるのかも知れない。「正直、世界の構造の探求とか、どうでもよかったのだ。 難しいことをやれていれば。」とは、この方が書かれていることだが、他者には理解できないような難しいことをやっている自分が好きだったのだろう。そして、それを賞賛されることでデキる自分という自己認識を作り上げていく。それはそもそも他者との関係性の中から生まれたものであるにもかかわらず、外部環境が変化しても不変なものとして"他者よりも優れた自分という存在"をつくる。その存在と外部環境のギャップに煩悶する。肥大した自我を自ら作り出してしまったが故に、前に進めなくなる事がよくある。
で、結局何が言いたいのかというと。
多分何かを言いたいということはなく。
ただ、能力があっても比較の中でしか生きられない他人のエントリーを見て、ちょっと優越感を抱いて難しいことを言ってみたかっただけなのだろうが。
今から建設的な妥協をしながら多様な価値観を身に付けることは難しいと思う。悲劇といえば悲劇なのかも。開き直れといわれても出来るものなら既にやっているだろう。畢竟、答えなんてものは簡単に見つかるものでもないし私のような他人が考えられるものでもない。この人に対しては残念ながら自分が出来ることは何も無い。けれども、この人に頑張ってほしいとは思った。
以上"蛇頭蛇尾"で書き散らしてみました。
人は!平等ではない。
生まれつき足の速い者、美しい者、親が貧しい者、病弱な体を持つ者、生まれも育ちも才能も、
人間は皆、違っておるのだ。
そう、人は、差別されるためにある。
だからこそ人は争い、競い合い、そこに進化が生まれる。
不平等は!悪ではない。平等こそが悪なのだ。
権利を平等にしたEUはどうだ。人気取りの衆愚政治と坐しておる。
だが、我がブリタニアはそうではない。争い競い、常に進化を続けておる。
我が息子クロヴィスの死も、ブリタニアが進化を、続けているという証。
闘うのだ!競い奪い獲得し支配し、その果てには、未来がある!!
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20070224124402
2ちゃんねるへようこそ
増田にいる人の多くは、「ここは、同じ匿名でも2chとは違うんだ」っていう意識があるように思う。
自分も両者には差(優劣のことではない)があって欲しいと思う。
元エントリーの方は、煽るにしてももうちょっと上手くやってくれ。
上手い文章が書けないとしても、人を馬鹿にするようなことだけは書かない方がいい。
その文章が煽りなのか批判なのかを区別するべきではないだろうか。
エントリーの全てを真に受ける必要はどこにもない。
そもそも、人間の言っていることが絶対に正しいなんてことはありえない。
もちろん、私の言ってることも「正しくない」。
世の中には好き嫌いしか存在しない。
極論かもしれないが、私はそう「思ってる」。
全ての意見は「参考」にしかならない。
その上で、議論を楽しんではいかがだろうか。
http://www.asahi.com/international/update/0224/010.html
女性を産む機械にしないために保育所増設するなということのようだけど、
日本では「育児支援が不十分なのに出産機械にするな」とという理由で批判されたが、ドイツではその逆で「育児支援すると出産機械になるからやめろ」というのが興味深い。保育所作ったら女性の役目は出産だけで育児はしなくてよくなるから駄目ってことなんだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070224124402
東大と名乗れば鼻にかけてるとか自慢といわれ、宮廷総計でも東大より格下といわれ駅弁やマーチも旧帝や総計より格下といわれ、それ以外の無名大ならFランクだといわれるんだろ。
※ここで言う少女マンガとは、「ちゃお」とか「りぼん」とか「なかよし」といった規制の厳しめの純度の高い子供向けのマンガ(またはそれと似通った系統のもの)のことですよ。
これと性欲の話を同エントリで語るのは見ていて気分を害す人が出てきそうなので、もしそうなったらごめんですよ。
ーー抜くのではない。気分をピュアにして煩悩を消滅させるのだ。俺にとってその手段が少女マンガだ。ーー
人は身体には逆らえないと思いがちだが、実はそうではなく、精神的な力で身体のうずきを限りなくゼロへチューンダウンさせることができる。
例えば、強い暗示によって、麻酔無しで手術できるように。
力で抑えようとすれば、反発してかえって余計に自分が望まないノイズが大きくなってしまうからだ。
俺にとって純粋な作品は、身体のうずきを感じなくさせたり、少し感じても別段踏みとどまれるほどの爽やかな気分を与えてくれるものだ。
だから、俺には少女マンガが欠かせないものと、改めて認識した。
みんなは性欲は解放する方向を取るのだろうが、俺にはどうにもそっちの方向で行くと、時間と精神力と体力、気力を激しく消耗しすぎて効率が悪いので、やはり抑える方向で行くのが一番合理的(ベスト)という結論に達した。
心をピュアに保つ。
これはオナニーとは別の手段である。
その作品の純粋な世界に浸る内に、いつの間にか情欲は消え失せている。
だけど純粋な作品であろうが純粋な存在であろうが何であろうが構わずエロスへと結びつけてしまうような、すでに汚染された人たちにはこの方法論は通用しまい。(たとえば、幼年幼女は汚してはいけない領域にいるが、その聖域を踏み越えてしまった人たちなど。)
もうUNIXから乗り換えるのまんどくせ。別に困ってないし。サーバじゃ大体これが主流だし。
関係ないけど、WebデザイナがMacのノート使ってるのをよく見るけどあれってなんでなんだぜ? ほとんどのお客さんがWindowsつかってるのにいまだにMacで頑張ってるしさ。それでデザインが崩れるとかいってtableレイアウトに固執してるんだぜ?
しかもIntelマシンでDreamWeaverとかPhotoshopとかUniversal Binaryじゃないのに遅くないんかね? ていうか色見もちがうし、フォントだって違うだろ。
シンプルでありながら色々出来る。
ってなことは置いといて、
について。
まぁ、プログラマといっても色々いるわけで、どんなプログラマを指していっているか?というのも有りますが。
作ったプログラムのテストをするとき、実際に動く環境に近いほうが良い、ってのもわかりますよね?
だからWebアプリとかはUNIXに近いMacで作るほうが便利なんです。
そして、一番大事な事。プログラマにとって便利なOSは、よりプログラマにとって便利なOSになっていく。
だって、自分達で便利にしちゃいますから。
http://anond.hatelabo.jp/20070224114948
X=(1.2)^8
logX=8*log(1.2)
=8*log(6/5)
=8*(log2+log3-(1-log2))
=8*(0.301+0.477-1+0.301)
=8*0.079
=0.632
X=4~5くらい? やや4に近いか.
電卓で計算したら4.30だった.100万円借りたら400万以上に.
ところでトラックバック先の人に質問なんですが,金利が1.5%とか2%とかの低金利の場合,log(1.015)とかlog(1.02)とかの暗算はどうすればいいんですか?
大学教員をしています.客観的に見て日本国内では学歴エリートだと思います.
でも貴重な時間を割いてこのエントリを書いているようではきっと自分自身馬鹿だという自覚は少なくともあります.
http://anond.hatelabo.jp/20070224094417
後半の「頭のよさを安全に剥き出しにする訓練」=前半の「頭のよさを謙遜する処世術も自然と身に付いてた」としか読めんのですが.
この方は頭が悪いから,人生の前半の訓練によって得られた方法が,社会人になってから通用しなくなってモデルチェンジせざるを得なくなっただけ?じゃないの?過去の行動が無駄だったと思うならあんた馬鹿だってことだよ.
基本的に,頭の良さを出すか出さないか(=「傲慢」or「謙虚」の選択)は手段にすぎず,目的として成果を求めるのが仕事っていうものだと思うんだけど.
傲慢な親心をもって「遠謀深慮」って言葉を贈る.
http://anond.hatelabo.jp/20070224120207
研究室で学生を預かる立場としては,「努力するという才能」の存在を痛感することがしばしばあります.
分野にもよりますが,研究者になる上で頭の良さより別の才能(いい意味での馬鹿さとか)が求められていることはもはや常識だと思っていましたが.
努力できる(特に「し続ける」こと)ことが才能に含まれないような書き方だったので,少し気になりました.
コミュニケーションや世渡りの才能が乏しいことで悩んでいらっしゃるようですが,個人的には会社や大学の様な上下関係がしっかり確立していない別の環境,例えば地域のボランティアなどでの経験をおすすめしますよ.視野が広がります.
私自身も若いときは「何も失うもののない状況なのに、人前でおどおどしてしまって言いたいことが言えない。もちろん得をした点もあり、「素直で礼儀正しい」という評価を失ったことはない。」という感じでしたので,人ごととは思えず.