2016-09-01

オタクになるのも才能なのかもしれない

顔が醜くて性格が暗い奴を指して使う意味での「オタク」ではなく

つのコンテンツが生きる糧になっているような意味での「オタク

としての話。

電車男流行っていた時期ではオタクという生き方がかなり隠れた

層でしかできず、故に濃度の極めて高いものけがオタクとして生きていた。

時は経ちオタクの主な住処でもあったネット一般層、はたまた若年層にまで

普及し今やオタクコンテンツは一つの趣味として使えるようになった。

ネット趣味の共有による仲間作りのハードルを大幅に下げた功績は大きいのだろう。

それでも一般層の多くから見れば今まで通り気持ちの悪いものではあるが

昔のような濃度がない人間オタクとして生きることができるようになった。

どちらかというと濃度がない人間オタクを名乗るようになったのか。

こうしてオタクといっても濃度の濃さが違うことが浮き彫りになっていくと

オタクある意味適性、才能のような部分があるとわかってくる。

それはオタクになろうとしてもなれない人間がいるということ。

例えば、どこか打算的でコンテンツ自分価値を上げる道具として見ている場合

有意識が持ちたいがためにコンテンツを続けていたりという具合。

まりは「好き」という感情より「得」をしたいという感情オタク

なろうという人間がいるということである

基本的オタクになって「得」をするのは難しい。大半は生活から離れた

ものばかりで金も時間も労力も何一つ残らない。

唯一残るのは「共有」していた仲間と記憶だろうか。「好き」という感情から

まれたこれらはその人に取っては貴重な財産になる。「得」をしたいという

人間が本当に求めているものであるが残念ながらそういった人間

仲間は時間とともに消えていくし記憶も空しいものになってしまうだろう。

オタクとして生きるのは難しい。

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