いじめ問題について語る時「いじめられる側に原因がある」のか、「いじめる側が悪い」のか、という2択の声がよく上がる。
しかし、だ。何故いじめられる側には「原因」を追求しようとするのに、いじめる側は「善悪」のみで話が終わってしまうのか。
あえて行動を起こしているからには、いじめっ子にとって何かそれだけの原因、メリットがあるはずなのだ。
以下は私が推測するメリットである。おそらくは単一、もしくは複数のメリットを求めていじめは起こる。
誰かを苦しめる、ということが目的であるため、「いじめられる側の原因」は関係がない
→他者を攻撃しなければ発散できないストレスを抱えている時点で問題がある
ストレス発散が目的であるので「いじめられる側の原因」を解消しても他に原因を探すだけ
→いじめなければいじめられるのでは、という恐怖を持たせてしまう環境に問題がある
いじめられるのが自分以外の誰かであれば構わないので「いじめられる側の原因」は関係がない
→相手を攻撃しなければ自分を認められない程、自己肯定力が弱い可能性がある
攻撃することが目的であるため、「いじめられる側の原因」は関係ない
「いじめられる側の原因」が直接的な問題ではあるのだが、私刑であり、社会的なルールに反する
6.無自覚。相手が嫌がっていることにすら気づいていない
→お互いのコミュニケーション能力不足。
以上のことから、「いじめられる側の原因」を解消しても、いじめはなくならないだろう。
「いじめられる側の原因」とはつまり「いじめられる側の悪い点」であり、これを認めてしまうなら「悪い点」が発生した時点でいじめられるリスクができる。
「いじめを行う」ということを単純に「悪」と断罪するなら、それは紛れもなくいじめた側の「悪い点」であり、いじめられるリスクができる。
いじめられるリスクが起きれば、自分以外のスケープゴートが欲しくなり、誰かを必死で悪者にする。
いじめだけには限らない。
結局、全員歪んでいるのではなかろうか。
いじめられる側にも原因があるってのは標的になる原因だ。 それは相手がどんな原因を持っていようが関係ない。 いじめは当然悪だが必ず起きる。 原因をなくすことでいじめがなくな...