はてなキーワード: 文化圏とは
語源に対して頓着がなさすぎるだろ。
俺としては淫夢由来の言葉を使うこと自体が人としての恥だと思うんだけど、平気で使うよね。
同性愛者差別と著作権違反が混ざりあった文化圏の表現なんて俺は口に出したくないんだけどなあ。
今使われている「ガバ」に当たる表現が他にないならともかく「荒い」「雑」「杜撰」「適当」「緩い」「拙い」「嘘(無自覚の)」といった表現がいくらでもあるなかであえて「ガバガバ」という意味があるのかと。
こういう話をすると「じゃあキリスト教徒は「利益」も「挨拶」も「旦那」も使えなくなりますねw」みたいに揚げ足取ってくるような奴がおるんやけど、そういうレベルの話ではないじゃん淫夢は。
たとえば歴史や文化の教科書に淫夢が載ることが今後あると思う?
25世紀の教科書に「インターネット初期の文化紹介」として「当時、ニコニコ動画では真夏の夜の淫夢シリーズを違法視聴してコメントを書き込むのが流行っていた」みたいに画像付きで紹介される可能性が0.0001%でもあると思うか?
ないだろ流石に?
だからやめろって。
ノベルスがライトノベルか否かって言われたら雑なノベルス語りをしたくなってきたぜ!!!!!
ということでしていきます
そもそも「ライトノベル」と「ノベルズ」を分ける定義の人たちってのは昔から連綿と存在していて、例えばノベルズって言うとどういうものかっていうと以下のようなレーベルです
等々……
さて、ライトノベルとどう違うの?と言われると、ものすごい簡単にいうと「文庫か新書か」という分け方になる
ライトノベルは主に「文庫」で書かれているレーベルを指すことが多く、ノベルズは「ノベルズ版(新書版)」と呼ばれるちょっと細長い感じの本で二段組で書かれているものを指す。
違いはそれだけか?と言われるとまあそれだけなんだが、もうちょい踏み込むにはノベルズの歴史を知る必要がある
1950年代ごろだと、そもそも日本における新書サイズの本と呼ばれるものは「岩波新書」に代表されるお堅い学術書が主だったもので、それに対して光文社が「大衆向けのもうちょいわかりやすい教養レーベルを作りたい」として作ったのが「カッパ・ブックス」と呼ばれるレーベルになる
(余談だが著者近影という文化を始めたのもこのレーベルが初らしい)
で、そこから姉妹レーベルとしてフィクションや物語を扱う「カッパ・ノベルス」が創刊された。
カッパ・ノベルスは松本清張や西村京太郎、小松右京など書いた日本のミステリやSF等エンターテイメント小説に多大な影響がある作品を出して大ヒットを飛ばした。
それを見た他の出版社もこぞってノベルズレーベルを立ち上げてそれぞれのレーベルで作品を発表していった。
これが大体1960年から1980年くらいにかけてのものすごい大雑把な流れで、ライトノベルより早い段階で日本のエンターテイメント小説にノベルズは多大な影響を及ぼした
特に、ミステリやファンタジージャンルに関してはこのノベルズの影響度が尋常じゃないほど高く、ミステリだとカッパ・ノベルスや講談社ノベルス、ファンタジーに関してはC★NOVELSなどで有名作品が数多く存在する
じゃあ、なんでライトノベル定義論でノベルズ含む含まない論争になるかというと、ここからは若干雰囲気ベースになるが「出自のターゲット層」じゃないかというところになる。
ノベルスは刊行されているものを見てみるとわかるが結構ターゲットの年齢層が高い。ぶっちゃけサラリーマンとかそっちくらい向けの作品群が多いのだ
この辺りはレーベルの当初から社会派ミステリの松本清張などを使っていることからも伺えるだろう
内容としてもハードボイルドや伝綺小説などが多く、いわゆるエンターテイメントの中でも硬派でおじさん主人公のものも結構多い
対してライトノベルというものは、ジュブナイル小説と呼ばれるいわゆる青少年向けの文化に影響を強めに受けていて、ターゲット層的にも青少年ないし大学生くらいが主だったターゲット層になる
この辺りの歴史的経緯から来る文化圏の違いみたいなものが、「含まない」という人たちが多い理由のひとつだろう
では逆に、「含む」派閥がなぜいるのか。というと、そもそもノベルズの歴史を見てもカッパ・ブックスの成り立ちからして、「大衆向け」でありエンターテイメント小説の土壌としてあったのはここまで話した通り
で、ライトノベルも言ったらエンターテイメント小説の集合の一部なわけで、まあ内容的に近しい作品が多いからだ
この辺り、時代を経るにつれライトノベルとノベルスというのは似た成長を遂げた経緯を歩んだところがある
ライトノベルは様々な近傍の文化(漫画やアニメ、ゲーム、ジュブナイル小説)をごった煮でまとめていったというのだけれども、
ノベルスは時代が経るにつれて対象である「大人たち」の変化を受けて、アニメや美少女ゲームの文化、さらにその近傍の文化を取り入れていき、ライトノベルと似たような変遷を辿っていった
特にこれらを取り入れていったのが、講談社ノベルス(及び講談社BOX)とC★NOVELSである
講談社ノベルス(BOX)で言うと、西尾維新や奈須きのこ、佐藤友哉など
上記の作家たちは、ご存知の通り小説もさることながら、アニメやゲーム、漫画などにも多大な影響を与えていった(というか奈須とかに関してはゲームがそもそも出自ではある)
これらの作品群は内容的にライトノベルでも出ていてもおかしくない作風のものもあれど、ノベルズ刊行になっている
また、ライトノベルにおいても、「C★NOVELSで出てそう」「講談社ノベルスで出てそう」みたいな作品は結構ある
(個人的には紅玉いづきさんとかはわりとC★NOVELS風味かなと思ったりもする)
実際「ブギーポップ」シリーズの上遠野浩平は講談社ノベルスで「殺竜事件」等の「戦地調停士シリーズ」を書いているし、ラノベ出身の作家がノベルスレーベルで書いている例も多い
こういった経緯で位置としてはめちゃくちゃ近い位置にあれど、しかし、ノベルスをラノベに入れるか?みたいなのがとても別れやすい、という妙な性質がこの二つにはある
個人的には、まあ歴史的経緯もあるし、レーベル史観でいいんじゃね?という意見なのでノベルスはノベルス、ライトノベルはライトノベルでいいかなあと思っている
ただここまでの歴史的経緯を踏まえても、現状似ている作品群も多いというのはあるので、含める気持ちもわかる
なので、もし今後議論する際には内容派閥かレーベル史観派閥かの宣言くらいはしてもいいんじゃねえかなあと思う
ただそれはそれとして、ノベルス、ライトノベル双方に面白い作品はたくさんある
ノベルスが好きな人も、ライトノベルが好きな人もそれぞれお互いに合う作品は結構あるので探してみるのもいいのではないだろうか
パートナーの代替物として性的消費して女性全体の尊厳を搾取してるオタク男性は、学生時代に女子文化を見下すようなミソジニーに触れてるはずで、だから、女性を遠ざけるようになる「前に」手を打つべきだと思うんだよね。
これまでは、止むに止まれず必死にしがみつく日陰者たちの領域だったけど、一部の人だけに創作の楽しみを独占させる理由はなくて、社会性を身につけようと努力してきた人たちにも解放すべきでしょ。
いわゆる清潔感とか、基礎化粧とか、コミュニケーション能力とか、社会のあちこちに普遍的に遍在する、人間関係の潤滑剤的要素がオタク界隈にも浸透して、例えばイケメンがチヤホヤされるようなフツウの文化圏になると思う。それが大衆化するということ。
美少女キャラを「卑しい女」と称するスラングについて、その興りが古すぎる上に虹裏という比較的他所と隔絶しがちな文化圏から生まれたスラングなせいで
「オタクが美少女をバカにする事言ってて気持ち悪い」「卑しいって普通悪口じゃない?なんでそんな事言うの?」みたいな誤解(でもないけど)をよく見かけるのでどこかに書き残しておきたいと思ったものとして残す。
https://dic.pixiv.net/a/%E5%8D%91%E3%81%97%E3%81%84
まあぶっちゃけ現状ではここ見るのが一番シンプルにまとまってるのだが…
まず始まりはライトノベル原作のアニメ「紅」であり、なんと2008年放送。15年以上前で書いてるこちらがびっくり。
「崩月夕乃」というヒロインが別ヒロインに「卑しい女」と言われるシーンが存在するのだが、
これが後に(小説・漫画の)夕乃というキャラの主人公への愛の重さを指す褒め言葉として虹裏のファンの間で逆説的に使われるようになり、「夕乃さん卑しい!」「卑しい…」といった定型(語録)のように広まっていく。
そして紅以外の作品にも伝播していき、漫画やアニメなどで重い愛情を主人公に向けるキャラが出るたび感想は「卑しい…」で埋まり、「◯◯って子が卑しくてかわいい」のような使われ方をするようになった。
その後アイドルマスターシンデレラガールズ(今で言う「モバマス」の時代である)に和久井留美というキャラが「美優(三船美優)は卑しい女よ…」という発言をするという二次ネタが流行る。
これがソシャゲなどが流行るたびに定型として別の作品に引き継がれるようになっていき艦これ・シャニマス・ウマ娘・ブルアカ…と広まっていく過程でまとめやツイッターを経て虹裏以外にも流出し、
元の流れを全く知らない層にも広まってしまった結果「卑しい=愛が重いヒロインへの褒め言葉」という前提の認識が一切ない場所でもそのまま流れで使われるようになってしまった…という経緯があるわけだ。
個人的にはこんなことになってしまった今となっては「その用法を知らない人もいるのだから誤解を受けやすいのは避けよう」とも「ネットのスラング文化くらい調べて欲しい」という心が2つあるのだが、
たまに「好きなキャラが卑しいって言われて悲しい」とか「私の作品に卑しいとか言う人がいて意味がわからない」みたいな悲しいすれ違いを見かけるのでこれを書いた。
「変な話だけどこのネットスラングの歴史においては卑しいは悪口じゃないんですよ…」ということだけは知っておくと多少心が安らぐかもしれない。そうか?
どこが本末転倒なんだ?おれは本気で言ってるし実践してるんだが
だからどんな集団にも必ずネガティブ面が存在する、その現実から目を背けることはできない
だから市場原理を選択に利用して、優れたプロダクトを作る企業は優れた内部マネジメントも持っているだろうと「信じられる」ようにし、
さらにその「信念」を揺るがすノイズ情報がそもそも入ってこない(言語や地理的に)疎遠なメーカーを選抜する
何とは申しませんけども口の利き方よ。外資やコンサル・シンクタンク系のポンコツとはまた違った味わい
元よりややサイコなため、いっぱい人に親切にしてもらっても、まだまだ常人には遥か遠いワイがこの文化で育ってたら、
いったいぜんたいどうなってたんでしょうね?これは仕事のスタンスだけに留まらず、プライベートにも影響すると思う
社会を知らない子どもに対してなんていう罪なことをするのかなぁ・・・と思うが、これに染まる・馴染む方も方だ
今までどういう人生歩んできたんでしょうね?塾とカラオケ&酒盛りと運動部しかやってなかったの?
ただ、こういう組織の方が、お堅い大企業よりも遥かに設計がしっかりしているのは闇深い(某ベンチャーもそうだった)
まぁ、エンジニアは他の文化圏からやってくるから、ポンコツではないのは『そうでしょうよ』と思うが、
孤独とinternal dialogueについては興味深い洞察だと思う。
『サイコ』のノーマン・ベイツもヘンリー・ダーガーも確かに自分自身で一人二役して会話していた。
それが孤独という苦痛ヘの慰めのために行ってるというのはあまりに一面的すぎる。
それは『さかしま』、『オブローモフ』が提示するように社交的関係によって発生する苦痛からの逃避としての孤独も存在する。『ツァラトゥストラ…』でも最終的には孤独が称賛されている。これらは文化的批評の領域であり、現実とは無関係だと思うかもしれない。
だけれども、文化とは文化圏の象徴的秩序を内包しているためフィクションと隣合わせに語られることは常に避ける事ができない。現代でも『ジョーカー』とかその元ネタと言われる『タクシードライバー』がこれら議論に対して抱き合わせのように引き合いに出される。
これら文化批評を取り除けば、他者に対しては振る舞い以上のものを我々は知る事ができない。
仮に合意形成の結果から相手の心理状態が類推可能なら囚人のジレンマは発生し得ないことになる。
復讐の意図を弱者男性が持ってるかは動機の主観的決定とその不可知性のため客観的な振る舞いからは推し量ることはできない。
これはデイヴィッド・ベネターが統計を引用して例を挙げてるが人というのは身体障害、知的障害を抱えていても幸福を感じる人々の割合は健常者と変わらない。そして、自己の幸福度の位置づけは相対的に決まる傾向がある。
どの立場であれ心理的抑制や環境によって与えられる不自由さの裏に悪意を見いだせばそれが防衛として他者に対して闘争行動をする動機付けになる。
━━正当防衛、一般に正当防衛が道徳として是認されるならば、いわゆる非道徳的な利己主義のほとんどあらゆる発現もまた是認されなくてはならない、人は、自己を保存するためにまたは自己を守ったり個人的な禍いを予防するために、害を加え、奪い、殺すのである(中略)意図的に害を加えることは、われわれの実在または安全が問題となる場合には道徳として許容される『人間的、あまりに人間的』
そこに合意形成が介入する余地はなく、個々の主観的評価で正当防衛の基準が決定する。法が予防効果を維持する事を放棄した時、法は犯罪を事後的にしか処理できなくなる。
一方で社会システムに着目すれば、反対者あるいは敵対者は結局のところ対象としている前駆的社会構造に寄与している。よって社会的機能を一部担っていると言える。《弱者》や《敵》無くして強者の価値付けの基礎となる社会の進歩・前進はありえない。
社会的弱者はその機能故に巨視的観点では無くならないだろうし、目に見える弱者としての存在は搾取する主体である強者が必要としてるからこそ残り続ける。
つまり、救っても救っても《弱者》は存続しそれを識別する指標であるスティグマも流行を規定するモードが存在する限り形を変えて生産され続ける。これは共同体幻想において神に等しい絶対者である。絶対者の在り方は超時代的ではない。問題は疎外化された周縁に位置する人間たちがサイコパス/ソシオパスのような生得的悪というレッテルを貼られて尚、否、初めて絶対者が剥奪し得ない自由意志による行動決定権が与えられる所にある。(シェリング)
万人は万人を殺す事ができる。野蛮な闘争状態を規制しているのは社会的報酬である。それが除かれた場合、上記の行為が当事者にとって合理的行動である。ただし、万人が合理的決定を行うわけではない。
しかし何も対処しようがない訳ではない。社会上の功利性の総和を考える時殺人が社会的に避けられないものならそれに方向性を与える事は決して無益ではない。これが畜群の智慧である。