はてなキーワード: 舞城王太郎とは
上手い文章って才能なの?
そうでもあり、またそうではない。上司に褒められる程度の、あるいは注目エントリーに入る程度の「上手い文章」ならば、いくつかの『文章読本』を読み、練習を重ねれば、まあ5割の人は書けるようになるだろう。元増田が言っている「上手い文章」はそういう次元にない。何せ引き合いに出しているのが漱石。100年を越えて読み継がれる漱石だ。もしあなたがプログラマーなら「100年後に読まれ、かつ賞賛されるコードが書けるか?」という喩えが近いかもしれない。そのたとえにならえば、前述した「上手い文章」はせいぜい「動くコード」でしかない。
そういう歴史的レベルでの「上手い文章」は、どうあっても修練じゃ書けない、という元増田の主張にぼくは賛成。やっぱりかれらには天与のリズム感、引き出しがある。とりあえず最近もっともぼくが「人種が違う」と思った作家の文章を挙げておくので、読んで判断してほしい。
補足しておくと、引用する文は『文章読本』的観点から言えば零点だ。
さらに補足。これがデビュー作の冒頭。
サンディエゴにはおよそ三百万人の市民が住んでいるが、そいつらがどういうわけだかいろんな怪我や病気を背負い込んでホッジ総合病院にやってくるから、ERにいる俺は馬車馬三頭分くらいハードに働いてそいつらを決められたところに追いやる。チャッチャッチャッ一丁上がり。チャッチャッチャッもう一丁。やることもリズムも板前の仕事に似ている。まな板の上の食材を料理するときのチャッチャッチャッチャッ。板前と違うのは奴らが切り開いたり切り刻んだりするだけのところを、俺達は最終的に全部元通りに縫い合わせてしまうっていうところだ。何かを一旦メチャクチャに傷付けてそれをまた元通りに戻すなんて作業をするのはこの世で外科医くらいのものじゃないか?多分そうだ。俺はこの仕事が好きだ。人の怪我を治せることが嬉しいんじゃない。忙しいからだ。俺は忙しく働いて手を動かしながら歩き回ったり走り回ったりするのが好きなのだ。
このたびはわたしの個展にお越しいただきましてありがとうございます。お忙しい中すみませんね本当。みんな忙しいよね? 授業とか就職活動とか美術展とかそういうの。この上さらにバイトやってる人はすごいと思うよ実際。うんうん。
で、個展やるからには作品解説!あと、私友達が本当にぜんぜんいないので、自己紹介を兼ねてなんか文章でも書こうかなと思います。暇だったら読んでみてください。
そういうわけで私の作品って何なんだろうって考えてみたんですけど、何なんでしょうね本当。テーマとか意味とか必然性とかないですよそういうの。楽しければいいじゃん。私が。というまあご覧のとおりのゴミ野郎です。排泄物です。カスです。オヴィリヨンダストです。そんなゴミ野郎がなぜ個展なんて開きやがったのかとお思いになるかと思いますが、要するに露出趣味です。私を見て!というやつです。こういういわゆる非コミュ・非モテ属性の人間というのは、人一倍自分を見てほしいと思うものなのです。でも傷つくのがいやだから直接見てください、どう思いますかって聞けないんです。
えーと私の作品ってだからアートじゃないと思うしむしろ「作品」ですらないんじゃないのかっていうのはありましたね去年くらいから。誰にも何も問うてないし社会?時代?なんですかそれはという感じなんですよね。どうにか意味づけをしようとしても無理でした。まさにゴミ野郎。でもそんなゴミカスでも一応人間だからいろいろと思ったり考えたりするんです。最近やっと東さんの本読みました。僕エロゲ大好き!YU-NOってマジ最高じゃね?って言ってるあの本ね。んなことブログにでも書いてろよ!!!!!!!たちまちはてなブックマークでホッテントリになれますよ。てめーなんか狭い村社会でせいぜいはしゃいでろよ。というような感想を抱きました。肝心の内容は理解できたようなできてないような感じです。ここ一年くらいで特に印象に残った本は「戦闘美少女の精神分析」(全部読んでないけど)「電波男」「1000の小説とバックベアード」の三つでしょうか。とまあこういう風に印象に残った本とかにかなり影響は受けてるつもりですが、どこがどう印象を受けているのかと聞かれるとさっぱりわかりませんのでやはり私の作品は「作品」たりえないのだろうしそもそもアート(笑)に思い入れなんぞないのです。私はアニメとか漫画とかが好きなんです。好きな小説家は舞城王太郎と江戸川乱歩と佐藤友哉です。じゃあなんで芸術学科に入ったの?って聞かれたけど、絵を描くのは好きなんです。いやーほんとまじめにアート勉強したいって方からすると邪魔でしょうがない人種だとは思います。なんで京都精華大学を受験しなかったんでしょうかね。富野とか竹宮先生とかいるのに。いや、高校生のときは今ほどオタk……漫画やアニメに熱心ではなかったので、ちょっとまじめに絵をやりたいかなーと思っていたんです。でも所詮「かなー」程度で大学受験してんじゃねえよって感じですよね。ハイハイすみませんね私みたいなやつが存在してて!!!!!!!!!!中学生のときギャル入った子が前の席にいてその子に「どうしたの?暗いよ?」と聞かれて「いやもともと暗いから」と答えたらあやうくシメられかけたことがあります。ほんとこれだからリア充はいやだよ。例えば教室で私が一人で座ってて後ろにギャル数人がいるとしますね。で、後ろでギャルとかが笑うたびに「私、笑われてるんだ……」と思うわけです。そうです、被害妄想です。わかってます。でもそう思ってしまうんです。私という人間の根本的な問題ってそういうところにあるんじゃないかなと思っています。こういう思考回路が理解できない、という方のために説明すると、こういう人は社会に一定数います。さっきの中学時代の話も「どうしたの?暗いよ?」のあとに(笑)がついているような気がしてならなかったんですよね。というかそうじゃなくても超普通にしてんのにそんなこと言われたら誰だっていやな気分になるだろ……でも一応心配してくれたわけだから、やっぱり「ありがとう、でも大丈夫」とか言っとけば良かったんだよね。普通にしてて暗いって言われるとかどんだけ根暗なんだよって話ですよね。友達にも真顔が怖いといわれたり話しかけづらいと言われたり、普通にしてるのに……と思います。でも友達にすらそう言ってもらえないよりはまだマシだし、一応友達と呼べる人たちはいるので(でもすんげー少ない)幸せなほうなのだと思います。
あと私が自分のことを最低だなと思うのは、誰かのために怒ったり泣いたり喜んだりできないという点です。舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」で登場人物が「メタ化された友人関係」について言及するシーンがありますが、私のそういう他人に共感するというプロセスがまさにそういった感じで「ここはこうするべきなんだろうな」というのはわかるんですが感情としてついてこないんですよね。これは本当に最悪だと思います。友達とか家族とか私のために何かしてくれたりするのに、私は本質的な意味で何も返せないんです。こういったことを書くと今後の友人関係が気まずくなりそうな気もしますけど。
とまあそんな感じで私個人の抱える問題というのをとりあえず書いてみました。こういうのも絵に少なからず反映されていると思います。というか、私がそういう人間だからこそ、文章や絵の中ではとても饒舌になれているのだろう、と思います。だからつまり、私が要するに根暗な人間でなかったら、絵を描くのも文章を書くのも苦手だったのではないかなと思うわけです。私の描く絵は、自分の気持ちのなかでかなり過激な部分が反映されてるような気がしています。言葉に出来ない分、がーっといけるのかもしれません。
というわけでここまで読んでくれた皆さんありがとうございました。これからも最下層なりに真剣に生きていけたらいいなと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20070312014115
「お話」論者の僕としては、なるほど、と思える内容だったのだが、トラックバック先の意見を見ると、
「ただ存在しているだけだ。その先は自分で探しなさい」と云っている。ああ、そういう答えは答えになっていない。
そんな話ではない。
だから、少し考え直そう。いつも人は答えを結局のところ、愛だの、他者とのかかわりだの、と逃げ回っているが
元々は自身の空虚さ=存在理由の無さに起因しているのだから、自分の中で決着をつけなければならない。
その意味では「自分で探す」のは正しいのだけれど、その先が無い。
人は何故お話を好むのか?誰か考えたことはあるか?キャラクターは頁の中ではどんな時でも命題を背負って、
命題のために戦う。過去があり、現在がある。そうして、決着の付いた状態で物語は終わるのだが、これは幸せではないか。
何故か?舞城王太郎のいうところの「いい人間」だからだ(阿修羅ガールというものに出てくる、読んで)。
いい人間であるということは、それはつまり自身に眠る「本質」を体現することを渇望しているということに他ならない。
そうして何らかの形で「本質」との間で決着が付く。それは幸せである。
ところがこの世の中というのはどうやら上手く出来ているようで、「本質」など抱かずに生きている者が多数いる。
「本質」など背負うものでもない、とも思えるのだが、自身の空虚さに耐えられないことの方が遥かに大事に思えてくる。
もちろんこれは「本質の不在」に気付いた人間のことだ。彼らは物語を渇望する。先に述べたように、物語とは
「本質」を充足させるためのものであるから、物語を望むということは「本質」を求めているということに他ならないのだ。
挫折するものがそのうち現れる。待っていても探していてもやってこないからだ。それを言い換えるならば絶望という言葉が
適当だ。このセカイ(セカイと世界は違う。セカイとは自身とこの世の関りそのものだ)は自身だけではなく、セカイ自体が
空虚なものである、ということが分かる(よく分からない人は物語的構造から考えてほしい。物語ではセカイがヒトに意味を
与えるものだ。)。そんな「いい人間たち」がやることといえば「見る」ことである。
絶望とは必ずしも死を意味はしない。「死」(要は自身の敗北、あるいは物語の不在を認めること)はあるが、それイコール、
というものでもないのだ。さて、絶望することでヒトは解放されることになる。もう一度ここで「本質の不在」で嘆いていた人に
考えてもらいたい。「本質」は宿るものではないのだ。ではどうやって見つけるか。「足跡」から見つけるべきだ。
自身が探してきた、というその足跡こそが、あなたの「本質」である。
足跡を見つけて初めて安易な「愛」を語ることなく「本質」を語れる。それが僕の足跡だった。
http://anond.hatelabo.jp/20070209131658
そして、婆ぁにしてみれば、昼間は学校に行く学生と違って、日中もずっと家にいる自分は、使いでがあるらしく、四六時中ベルを鳴らしては自分を呼び、用が済むと、別に、いくらいくらと決まっているわけではないが、若干の小遣いと腐った羊羹など菓子を呉れるのであるが、最初のうちは、ちょっとした用事で済んでいたのが、婆ぁは、だんだんに増長して調子を出し、この頃では、ひとつ用事が終わっても、それが済んだら庭の草刈り、それが済んだら買い物、と、一回のベルで、次々に用事を言いつけ、もう自分は、化物使いという落語や、ガルシア・マルケスのエレンディラという小説を連想するくらいに、うんざりして、婆ぁのところに行くのがすっかり嫌になってしまったのである。
小学校のクラスに二崎貢司って奴がいて、こいつは凄い頭良くて勉強できたくせにサドで苛めっ子で何考えてるか判んないところがあって、突然何も理由が見当たらないのに昨日まで一緒に遊んでいた男の子をハブったりして一人で楽しんでたようだったのだが、クラスの皆がこいつをどう扱っていいんだか判らないまま勉強できるし運動できるし口は達者だし何か怖いし何が理由で嫌われたり好かれたりするんだか判らないしということでとりあえず二崎君はクラスの中心に置いといてアンタッチャブルって感じだったんだけど、そんな二崎に対抗したのが隣のクラスの浦安正輝で、その浦安の友達で、浦安が二崎をボコったときに止めに入ったのが金田陽治だった。
この二人が面白い。
まあ、「文学賞メッタ斬り!」の受け売りなんだけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20061210135747
記憶にあるものの一部がパーツとして組み合わされて創作に現れただけで、特別な意図は全然ない気がする。
舞城王太郎の「好き好き大好き超愛してる。」という本で、モデルと小説の関係について書かれていたのを連想する。
蛇足で個人的な経験を書く。
自分の実感では、創作に「モデル」は存在しなかった。記憶が脈絡なく放り込まれている頭の隅から、ある日突然隣り合った物が曳き寄せ合って勝手にくっついて、いきなり手足目鼻が完成した形で這い出てくる。それを写し取るだけだ。(プロの人は、意識してそいつを作り出せる人なのだろうと思う) 物語はひとかたまりになって這い出してくるものであって、その一部を取り出して「『コンビニでバイトしてる男』ってオレしかいないじゃん」みたいなことを言われても困惑してしまう。自分では無関係に見える。
ある時頼まれ事で初めて創作というものを提出してみた時、予想外だったのは、友人たちがそうした「モデル」について積極的に詮索することだった。
「この会話はあの時の会話がモデルか」「この展開は先日の事件がモデルか」「この建物はあそこがモデルだ」「この主人公は○○がモデルだろう」など。そんな考え方があるとは思いもよらなかった。似たものが全く見当たらないエピソードに至っては、「これはいったい誰との経験なのか」「想像にしてはリアル過ぎる」「どうして隠すのか。教えられない秘密なのか」「記憶になくとも、幼少時に目撃したんじゃないか」とまで言われてしまった。
何を登場させても、読んでいる人は「モデル」があると考えるようだし、自分も創作している人であっても、「モデル」が必ずあると思う人とそうでもない人の両方がいるらしい。
現実の出来事を話したり手紙で伝えたりするのと違って、「創作」という形のものが他人の目に触れると、このような見方をされるのか、と非常に驚いた。面倒なのでその後創作はやっていない。