http://anond.hatelabo.jp/20070312014115
「お話」論者の僕としては、なるほど、と思える内容だったのだが、トラックバック先の意見を見ると、
「ただ存在しているだけだ。その先は自分で探しなさい」と云っている。ああ、そういう答えは答えになっていない。
そんな話ではない。
だから、少し考え直そう。いつも人は答えを結局のところ、愛だの、他者とのかかわりだの、と逃げ回っているが
元々は自身の空虚さ=存在理由の無さに起因しているのだから、自分の中で決着をつけなければならない。
その意味では「自分で探す」のは正しいのだけれど、その先が無い。
人は何故お話を好むのか?誰か考えたことはあるか?キャラクターは頁の中ではどんな時でも命題を背負って、
命題のために戦う。過去があり、現在がある。そうして、決着の付いた状態で物語は終わるのだが、これは幸せではないか。
何故か?舞城王太郎のいうところの「いい人間」だからだ(阿修羅ガールというものに出てくる、読んで)。
いい人間であるということは、それはつまり自身に眠る「本質」を体現することを渇望しているということに他ならない。
そうして何らかの形で「本質」との間で決着が付く。それは幸せである。
ところがこの世の中というのはどうやら上手く出来ているようで、「本質」など抱かずに生きている者が多数いる。
「本質」など背負うものでもない、とも思えるのだが、自身の空虚さに耐えられないことの方が遥かに大事に思えてくる。
もちろんこれは「本質の不在」に気付いた人間のことだ。彼らは物語を渇望する。先に述べたように、物語とは
「本質」を充足させるためのものであるから、物語を望むということは「本質」を求めているということに他ならないのだ。
挫折するものがそのうち現れる。待っていても探していてもやってこないからだ。それを言い換えるならば絶望という言葉が
適当だ。このセカイ(セカイと世界は違う。セカイとは自身とこの世の関りそのものだ)は自身だけではなく、セカイ自体が
空虚なものである、ということが分かる(よく分からない人は物語的構造から考えてほしい。物語ではセカイがヒトに意味を
与えるものだ。)。そんな「いい人間たち」がやることといえば「見る」ことである。
絶望とは必ずしも死を意味はしない。「死」(要は自身の敗北、あるいは物語の不在を認めること)はあるが、それイコール、
というものでもないのだ。さて、絶望することでヒトは解放されることになる。もう一度ここで「本質の不在」で嘆いていた人に
考えてもらいたい。「本質」は宿るものではないのだ。ではどうやって見つけるか。「足跡」から見つけるべきだ。
自身が探してきた、というその足跡こそが、あなたの「本質」である。
足跡を見つけて初めて安易な「愛」を語ることなく「本質」を語れる。それが僕の足跡だった。