2007-03-12

「お話」論者の意見

http://anond.hatelabo.jp/20070312014115

「お話」論者の僕としては、なるほど、と思える内容だったのだが、トラックバック先の意見を見ると、

「ただ存在しているだけだ。その先は自分で探しなさい」と云っている。ああ、そういう答えは答えになっていない。

そんな話ではない。

だから、少し考え直そう。いつも人は答えを結局のところ、愛だの、他者とのかかわりだの、と逃げ回っているが

元々は自身の空虚さ=存在理由の無さに起因しているのだから、自分の中で決着をつけなければならない。

その意味では「自分で探す」のは正しいのだけれど、その先が無い。

人は何故お話を好むのか?誰か考えたことはあるか?キャラクターは頁の中ではどんな時でも命題を背負って、

命題のために戦う。過去があり、現在がある。そうして、決着の付いた状態で物語は終わるのだが、これは幸せではないか。

何故か?舞城王太郎のいうところの「いい人間」だからだ(阿修羅ガールというものに出てくる、読んで)。

いい人間であるということは、それはつまり自身に眠る「本質」を体現することを渇望しているということに他ならない。

そうして何らかの形で「本質」との間で決着が付く。それは幸せである。

ところがこの世の中というのはどうやら上手く出来ているようで、「本質」など抱かずに生きている者が多数いる。

「本質」など背負うものでもない、とも思えるのだが、自身の空虚さに耐えられないことの方が遥かに大事に思えてくる。

もちろんこれは「本質の不在」に気付いた人間のことだ。彼らは物語を渇望する。先に述べたように、物語とは

「本質」を充足させるためのものであるから、物語を望むということは「本質」を求めているということに他ならないのだ。

挫折するものがそのうち現れる。待っていても探していてもやってこないからだ。それを言い換えるならば絶望という言葉

適当だ。このセカイ(セカイと世界は違う。セカイとは自身とこの世の関りそのものだ)は自身だけではなく、セカイ自体が

空虚なものである、ということが分かる(よく分からない人は物語的構造から考えてほしい。物語ではセカイがヒトに意味

与えるものだ。)。そんな「いい人間たち」がやることといえば「見る」ことである。

絶望とは必ずしも死を意味はしない。「死」(要は自身の敗北、あるいは物語の不在を認めること)はあるが、それイコール

というものでもないのだ。さて、絶望することでヒトは解放されることになる。もう一度ここで「本質の不在」で嘆いていた人に

考えてもらいたい。「本質」は宿るものではないのだ。ではどうやって見つけるか。「足跡」から見つけるべきだ。

自身が探してきた、というその足跡こそが、あなたの「本質」である。

足跡を見つけて初めて安易な「愛」を語ることなく「本質」を語れる。それが僕の足跡だった。

最後に。何故か高校生頃になると、逆にアニメRPGにはまる人が出てくる。何故だろうか。考えてみてほしい。

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