はてなキーワード: エラいとは
まぁ、俺も小学生のころはそんなもんだった。中学受験をして一貫校に行ったら、下は増えたけど、上は上だったからねぇ。
ちょっと気分変わってきたのは、東大入ってからかな。
最近は知らないが、東大の教養学部前期課程のとき体育実技が必修であった。単位数はともかくとして、必修体育自体はどこの大学でもあると思う。
この実技なんだが、種目選択の前に最初に体力測定があって、これで基準に達しないと種目は「トレーニング」強制。
もちろん、俺はそれwww
ウェイトトレーニングと、1500メートル15分走。これが 1年生の夏学期の全て。
東大の体育実技の担当って、助手だった。統括してたのは助教授とか教授かもしれなかったが、そこは覚えていない。
トレーニングは石井直方教授(だったと思う)のラインで、かなり科学的トレーニングの知識をきちんと持っている人達だったんだよね。
余談だが、体育講義というのもあって、当時は浅見俊雄教授がやっていた。
直接教わった助手のひとは、軽く調べるといまは加圧トレーニング方面の偉い人になって、東大の客員教授。その前は都立大で助教授やっていた。
そういう環境で身体をちゃんと作るための基礎を学んだので、あんまり運動が嫌では無くなった。
週1回だから、マシンやバーベル種目での身体の動かし方や漸進性過負荷の原則を学んだ程度はあったんだが。
その後、趣味のスポーツで怪我をする→リハビリでネットで調べてちゃんとしたところへ行く→スポーツクラブに入ってちゃんと身体作りをする
とかやっていくと、まぁ、肉体改造オタ的な趣向も入ってきて、身体能力が上がっていって、そうするとスポーツがいろいろできるようになってきた。
ただ、一人でやっていると団体スポーツに必要な要素は身に付かないし、敏捷性は動体視力も鍛えないといけないが、そちらは手つかず、ということで、
なんでもできるわけじゃないし、うっかり全日本クラスを目指すジュニアがいるようなガチンコ競技系の講習会とか行くとエラい目にあったりするわけだが、
そこそこスポーツはできるようになったよ。モテとの関係は知らん。その前に結婚したしな。
趣味のスポーツの中身は出さないが、スポーツクラブでやってる筋トレさらしておくと、レッグプレス 200kg で 10回3セット とかは普通にできるようになった。
チェストプレス 70kg 10x3 ぐらいだし、ラットプルダウンは 50kg 10x3 とかなんで上半身は弱いけど、これは趣味スポーツとの関係で下半身中心でトレしてるからそんなもんかと。
ほんとは腹筋きっちり作らないといけないんだけどね。これはまだ課題が多い。
そんな 30代後半のこの頃。
こういうのって、どうすればいいんだろう。いや、これまで30年以上かけて家族の誰が諭しても、決して理解することはなかったのだから、おそらく死ぬまで治らないのだろう。
なに。こういうオッサンほど往々にして、みのもんたや細木数子などといった「なんかしらんけど、テレビに出てて、いろいろエラい事を語ってる人」の言う事は、案外とあっさり聞くもんだ。
「家族の言う事を聞かない」のではなく、「家族が言う事だからこそ聞かない」のだよ。
世間的に権威のある人(それがその親父さんにとって誰なのかは当人にしか分からないだろうが)にビシっと言われれば、その段階でやっと改心するパターン。
なにをもってエラいかってのは、難しい問題ではあるけど「依存度の関係」で決めてもいいじゃないか。つまり、〜がないと死ぬってやつね。で、アメーバはどうかしらんが植物や昆虫はこの尺度だと地球の王様で、人間は彼らのどっちか一方でもないと全滅だけど、彼らは人間が全滅してもなんの問題もない。
で、ヒトは違うけど、植物やワニやサメやいろんな生き物なんかはオスが全滅しても単為生殖でメスだけで子孫反映できるわけで。もうすこししたらどうせヒトでも単為生殖できるようになるだろうから、そのとき男なんてまったく無価値になって女に捨てられるか、顔がいいのはペットとして飼われるようになるかもね。デ・カルチャー!というか「ヒューストン、ヒューストン聞こえるか?」
あと、昆虫はぜんぜん原始的じゃないぞ。めちゃくちゃ繁栄してるし、神経系統なんかも高度な動物とヒケをとらないところもある。みんなデカい図体してるのにゴキブリが恐いでしょ?ハエがなかなか殺せないでしょ?エジプトの災いじゃないけど、本気で虫がかかってきたら人間なんかひとたまりもないわけよ(核とか使ってもいいけど、人間自身も無傷ではいられない)。人間なんかちょっと伝染病が流行ったら一気に全滅する可能性があるけど、昆虫は遺伝子が多様でそういうことはなかなか起こりえないしね。実質、昆虫は地球の支配者だよ。
「私なんてエラが張ってて云々かんぬん」と言い続けているので
そうだね張ってるねと思いつつも
いつも「そんなことないって!」「気にならないって!」と返しているが
「あるんだって!」「気になるんだって!」とぐだぐだ続くのが超うざい。
「そうだよね!」って言えば気が済むんか。
たとえば
『あんまりエラエラ言わんとって! 通りかかる人のエラいちいちチェックするようになってしもたやんか!』
などというワケの分からないキレ方をして、自分がアホになって笑わせて、で、結局相手の発言を止める、というのが関西流。
数が多けりゃ十分じゃん。
だから元の増田エントリで「市場によって肯定されているものをさらに言論によっても肯定しようとする、その動機とはなんぞや」って先に書いてるのよ。
作品が売れていて、儲けが出ていてるんだから、市場の流れとして「エンタメ」の新作が作られなくなることはないし、制作費も必要十分に割かれる。新しい作り手もきちんと登場するでしょう。そこに言論の必要なんかないのに、なんでいちいち「エンタメ」を言論で肯定せにゃならんの。
ええっ!?意味がわからん。もしかして、「楽しければいい人用の作品」と「知的鑑賞したい人たち用の作品」とあること前提に話が進んでいるのか。それなら、よくわからないな。俺は、有る作品があって、それを見る立場の価値観の話だと思ってたんだけど。だからこれ以下は全部意味不明。俺は、「エンタメ用」「知的鑑賞用」って作品が分かれているとは考えて無いから、市場云々も全く同意できない。受け取る立場の問題だと思うんだがな…
あと、必要がないとかそういう問題なのかね。さっきも書いたけど、単に「鑑賞の方が消費よりエラいじゃん」という意見が出たら、そう思ってない人は「違うよ。それは違うよ」って言いたくなる、それだけの話なんじゃないの?動機って、それだけで十分でしょ。さっきもその辺は書いたのに、そこだけ無視されてるのは何故だかわからんけど。必要じゃない、ってのは、結局、君の立場で言ってるだけじゃないのかね。「俺的には必要ないしぃ」ってだけじゃないか?
これもくりかえし。知的鑑賞派は黙ってりゃ市場が縮小していくばかりなので、折を見て宣伝・広報をする必要があんの。
うーん、余計なお世話だが、とてもさっきから出てるのが「宣伝・広報」を目的とした言い分には思えないw知的鑑賞系の物の市場を拡大したいなら、そうでない人たちにケンカふっかける物言いじゃ逆効果じゃない?拡大したい、というなら、もっと戦略練った方が言いと思う。今の状態は、単に「お前ら分かってないんだ、バーカバーカ」レベルで終わっている(少なくともそういった印象でしか伝わっていないと思う)。
絶対この反論は出ると思ってた。「時と場合による」と思ってるから「大前提」と書いたんだけどね。書き方が悪かったね。申し訳ない。頭に「原則」と補足してもいいや。
「時と場合による」事が分かっているなら、何故そんな無意味な事書いたのか、わからない。
しかしまあ、「能動的な態度はエラい」っつーのは撤回しないけど。「頼んでもいないのに押しかけてくるのも能動的だからオッケーかい?」っていうケースは、原則として「能動的なのがオッケー」とされているから、押しかけてくるやつに自分が迷惑していることを伝えるのが大変なんでしょ、と。能動的な態度がリスペクトされない社会だったら、押しかけるも何も能動的に動いた瞬間にそいつキ○ガイ扱いじゃん。
押しかけてくる奴に自分が迷惑してることを伝えるのが大変なのは、そういう押しかけてくる奴というのは聞く耳を持たないタイプが多いだけで、能動的なのがオッケーと無条件に認識されているからではないぞ。伝えようとする事は別に大変じゃない。相手がそれを受け取ろうとしないだけで。能動的に動いた瞬間に??以下がいまいち意味がわからないが、別に「リスペクトか、キ○ガイか」のどちらかではないんだから、「単なる訪問」から「押しかけ」になった瞬間にその人はキ○ガイとなるだけであって、それまでは別にリスペクトもされなければキ○ガイ扱いもされない、全く何もない状態なだけじゃないか?何故能動的な態度がリスペクトされないなら、能動的に動いた瞬間にキ○ガイ、とそんな極端な結論になるんだよw
そう本当に思うんなら慎み深く黙っといたほうがいいんじゃないかな。本当はこんな風に思ってないくせに。「エラかろうがエラくなかろうがどうだっていい」と思っている俺ってクールだぜ、と高みに自分を置いた気になって正面から意見表明すんの避けて傷つくのを避けてんだよ。そのくせ自己顕示欲はあんの。自分の欲望は素直に認めて対処したほうがいいと思うけど。
勝手に「お前はこう思ってるに違いない」って邪推して、そこからブツクサ言われてもなあ…そんなこと思いもしなかったよ。そんな事を思いつくって事は、そういう意識が君にあるって事かな?なんて意地悪をつい言いたくなってしまうべw
どうも、最初から君は、「本当にそう思ってるなら黙っているはずだ」っていう意識があるみたいだけど(必要ないのにどうして肯定するんだとかも似てるけど)、それからして既に分からない。どうして本当にそう思ってるなら黙ったほうがいいの?黙ってたら、何も伝えられないじゃないか?考えを口に出せば「口に出したんだから違うんだ」。出さなければ、そもそも分からない。なんつうか都合のいい言い分なんだよなあ。最初からさ。自分は言うけど、相手が言ったら「言う必要ないのにわざわざ言うってことは……」「本当にそうなら言わなきゃいいのに言うってことは……」ってケチをつける。そりゃないでしょーよ。とりあえず、いちいちケンカ売るように絡んでくるのはやめて欲しいよ。そんなことしなくても、べつに語れるだろ?子供じゃないんだから。
そもそも、エンタメ至上主義って完全に肯定されてる訳じゃないと思うが。だからこそ、こういう議論が起こるんだと。エンタメ至上主義者の「数」は多いと思いのは確かだと思うが、でも世間には何となく「批評家の方が偉い」という空気も同時に存在している。だから「エンタメ至上主義だし、批評的な見方なんてべつにエラくねーよ」的な意見が出てくる。「楽しければいいよ」もしくは「批評できる人ってエラい」という意見は今の日本で何となく肯定されているけど、「楽しければいいし、それが批評的な見方より劣ってるとも思わない」という意見はまだマイナーめ。動機はそこである気がする。
数が多けりゃ十分じゃん。
だから元の増田エントリで「市場によって肯定されているものをさらに言論によっても肯定しようとする、その動機とはなんぞや」って先に書いてるのよ。
作品が売れていて、儲けが出ていてるんだから、市場の流れとして「エンタメ」の新作が作られなくなることはないし、制作費も必要十分に割かれる。新しい作り手もきちんと登場するでしょう。そこに言論の必要なんかないのに、なんでいちいち「エンタメ」を言論で肯定せにゃならんの。だから、
気持ちは分かるけども、でもそういう事を言いだすと、初めのエントリも何とでもいえてしまう。
これは「何とでもいえ」ません。市場で負けているサイドがそこに別の評価軸を持ち込もうとすることには必然性があるけれど、市場において評価されている作品をさらに評価する軸をことさらに設ける必要なんてないでしょ。
それと同じく、本当にそうだと思う人は、黙って自分だけ知的鑑賞をしていればいいんだよな。それなのに、わざわざ攻撃的な物言いで書き込むってのは、本当は自分の中で揺らいでいるから、それを他人に「そうなんだよ」って認めてもらって安心したいだけなんじゃないの?
これもくりかえし。知的鑑賞派は黙ってりゃ市場が縮小していくばかりなので、折を見て宣伝・広報をする必要があんの。一方、感情的消費は放置しておいてもどんどん広まっていくの(前提がいらない表現だからね)。自意識問題じゃなくて市場の問題なの。
だから「知的鑑賞の方がエラいに決まってるんだぜ!」と言ってる奴も、もしかしたら「消費側」なのかもしれないんだよなー。そうであっても、同じような意見、言えるんかな。それこそ、「自分が知的鑑賞サイドに属してるから、強い事が言える」という、勝ち馬に乗っかっちゃってるだけなんじゃないのか、と。たまたま自分が鑑賞サイドにいると「思える」事を強みに、言っちゃってるだけなんちゃうんか、と。まあ、そこはどうだっていいんだが。
自分が「鑑賞」サイドにいると思っている人間が間違っていたとして、それは指摘されたら直せばいいだけの話じゃん。そんだけのことよ。間違いだと思ったら謙虚に受け入れる姿勢があれば、間違えることなんか何も恐れることではない。間違ってたからといって人が死ぬわけじゃなし(かといって無責任に放言しては知的誠実さに欠けるけど)。
感情的消費は本当に完全に受動的なのか、ってのも疑問だし、
理解するための特別な努力もなく理解できるのが「感情的消費」だそうなので、それは「受動的」じゃないかしらね。
先のレスと重複。
大体、「頑張ってる奴の方が頑張ってない奴よりエラい」→それは場合と時による。大体の場合当てはまる、というだけに過ぎないし「能動的な態度はエラい」にいたっては初耳だ。
絶対この反論は出ると思ってた。「時と場合による」と思ってるから「大前提」と書いたんだけどね。書き方が悪かったね。申し訳ない。頭に「原則」と補足してもいいや。
しかしまあ、「能動的な態度はエラい」っつーのは撤回しないけど。「頼んでもいないのに押しかけてくるのも能動的だからオッケーかい?」っていうケースは、原則として「能動的なのがオッケー」とされているから、押しかけてくるやつに自分が迷惑していることを伝えるのが大変なんでしょ、と。能動的な態度がリスペクトされない社会だったら、押しかけるも何も能動的に動いた瞬間にそいつキ○ガイ扱いじゃん。
個人的には、エラかろうがエラくなかろうがどうだっていいし、そもそも自分の見方がどっちサイドかすらよくわかんね。皆すげえなと思うばかりさ。
そう本当に思うんなら慎み深く黙っといたほうがいいんじゃないかな。本当はこんな風に思ってないくせに。「エラかろうがエラくなかろうがどうだっていい」と思っている俺ってクールだぜ、と高みに自分を置いた気になって正面から意見表明すんの避けて傷つくのを避けてんだよ。そのくせ自己顕示欲はあんの。自分の欲望は素直に認めて対処したほうがいいと思うけど。
そもそも、エンタメ至上主義って完全に肯定されてる訳じゃないと思うが。だからこそ、こういう議論が起こるんだと。エンタメ至上主義者の「数」は多いと思いのは確かだと思うが、でも世間には何となく「批評家の方が偉い」という空気も同時に存在している。だから「エンタメ至上主義だし、批評的な見方なんてべつにエラくねーよ」的な意見が出てくる。「楽しければいいよ」もしくは「批評できる人ってエラい」という意見は今の日本で何となく肯定されているけど、「楽しければいいし、それが批評的な見方より劣ってるとも思わない」という意見はまだマイナーめ。動機はそこである気がする。
もしくは、本当にエンタメ至上主義が世間で完全に肯定されていて、「楽しければいいよ。それに別に批評的な見方なんてエラくないよ」が多数派だとするなら、『こんなにその意見が世間に知れ渡り認知されたというのに、未だ少数の自称知的人が「批評の方がエラいもんね」と言っている事が、単純に「鬱陶しい」』のかもしれない。『いい加減認めろよ、これだけ知れ渡って認められたんだから。いつまでもそれを認めずあがいてんじゃねえよ』っていう感じの。
というか、人は他人の「自分は他の人より上だよ」的主張は、どれだけそれがアホらしくてマイナーであっても大概ムカつくものだから、そこまで掘り下げなくても動機はそれで十分な気がする。目の前で、「俺批評的な目で見れる人間だから。お前ら消費するだけの凡人と違ってさー」などといわれたらそれがどれだけ世間でマイナーだろうがなんだろうが、「は?ふざけんな」という反応になるのは動機云々語らなくても至極当然な反応。それも炎上しやすいネット上だしな。
もう少し話を進めるなら、馬鹿にされてムキになってキレるやつ、必死で反論するやつって、「知的鑑賞」に憧れてる人だよね。憧れてても届かないから「知的鑑賞のできるやつがそんなにエラいのかよムキー!!」って怒るの。
気持ちは分かるけども、でもそういう事を言いだすと、初めのエントリも何とでもいえてしまう。
何も誰も言っていないのに、突然「鑑賞の方が消費より上だよ?上なんだよ?消費してる連中多いけど、鑑賞の方が上なんだよ?」とか言い出すのは、結局皆に、そうだって認めて欲しい、「うん、おまえは知能の高い見方をしているんだね。エラい人なんだね」と言ってもらいたい、という欲求からきてるだけなんちゃうの、と言われてもしょうがない事になる。本来の鑑賞が消費がは実はどうだってよくて、単に「俺はエラいだろ?」アピールに過ぎないのでは、ということになりかねん。
まったく興味がないひとは黙々と「感情的消費」に勤しんでるもんでしょ。
それと同じく、本当にそうだと思う人は、黙って自分だけ知的鑑賞をしていればいいんだよな。それなのに、わざわざ攻撃的な物言いで書き込むってのは、本当は自分の中で揺らいでいるから、それを他人に「そうなんだよ」って認めてもらって安心したいだけなんじゃないの?……って別にそんな事思ってはいないけど、そういう風にどうだって言えてしまう。だから、変に一つの主張から他人の心情を考え出す、というかほとんど想像・妄想・捏造しだす、ってのはどうかと思うのだ。そんないらんことしても逆に議論で不利になるだけだし、損だ。
あとこの手の議論で思うのは、そもそもその「鑑賞」と「消費」の定義がなされてなくね?ってことだ。それは鑑賞じゃなくて感想とか言ったりするけども、じゃあそれ誰が判定してんの?っていう。実際、「俺は知的鑑賞側にいる」と思っているような「自称批評家」さんは日本人に凄く多いけど、でもその人たち皆が本当に「知的鑑賞」が出来ているわけじゃないのは自明だし。当たり前のように皆分けているが、俺にはその境界線はいまいち分からん。仮に境界線があったとしても、実際には、その境界線付近をうろうろするグレーゾーンが一番多いだろう。例えば「楽しかったよ」だけじゃなく、「こういうところが、やっぱあのアニメ監督だからどーのこーの」と付け加えれば、知的鑑賞になるんだろうか?でも、実の所、「一見わかってる風」の「なんちゃって批評」を書くのは、たいした労力じゃないんだよ。今なんて、ある程度の知識ならちゃちゃっと手に入るし、それを元に「それっぽい」事を言ってみるのは、別に難しく無い作業。でもそれが「それっぽいだけ」か、「本当の批評」なのか、誰が、どうやって見分けるんだ?それとも、「それっぽい」のでも知的鑑賞の仲間入り?本当は表面だけの知識で背伸びして通ぶってるだけ、そんな文章でも、知的鑑賞に入れるのだろうか?どんなに的外れであってもいいんだろうか?うーん。わからん。
だから「知的鑑賞の方がエラいに決まってるんだぜ!」と言ってる奴も、もしかしたら「消費側」なのかもしれないんだよなー。そうであっても、同じような意見、言えるんかな。それこそ、「自分が知的鑑賞サイドに属してるから、強い事が言える」という、勝ち馬に乗っかっちゃってるだけなんじゃないのか、と。たまたま自分が鑑賞サイドにいると「思える」事を強みに、言っちゃってるだけなんちゃうんか、と。まあ、そこはどうだっていいんだが。
エラいよ。ボーっとしてても感じとれる受動的な「感情的消費」よりも、能動的な要素が関連する「知的鑑賞」の方がエラい。なぜなら能動的な態度はエラいから。「頑張っている奴の方が頑張ってない奴よりエラい」ってのは近代以降の社会の大前提でしょ?
感情的消費は本当に完全に受動的なのか、ってのも疑問だし、そもそも「エラい」って何なんだ、と思う。仮に消費と鑑賞が分けられたとしても、どちらがエラいという問題ではなく別ベクトルの楽しみ方、楽しみ方の種類に過ぎないのではないかと思うんだが、なぜ「エラいか、エラくないか」、言ってみれば「俺の方がエラいか、そうでないか」な対立にしたがるのか。ここまで来ると、いよいよ本格的に「俺はエラいんだ、そうだろう?」と認められたがっているだけなんじゃねーのかと思えてくる。大体、「頑張ってる奴の方が頑張ってない奴よりエラい」→それは場合と時による。大体の場合当てはまる、というだけに過ぎないし「能動的な態度はエラい」にいたっては初耳だ。おいおい、頼んでもいないのに押しかけてくるのも能動的だからオッケーかい?そうじゃないだろう、そういうのは全てケースバイケースにすぎない。流石にそんなに社会は単純じゃないよ。てか、それだけ単純なら楽だよなー。近代以降の社会は寧ろ、多様な価値観にもまれまくりでどんどん複雑化しているんじゃないっすかね。
個人的には、エラかろうがエラくなかろうがどうだっていいし、そもそも自分の見方がどっちサイドかすらよくわかんね。皆すげえなと思うばかりさ。
まだまだハリウッド映画的な文脈自由なエンタメ至上主義の価値観を追認しようとする、その動機ってのは一体なんなんでしょね。
言い方を換えれば、市場によって肯定されているものをさらに言論によっても肯定しようとする、その動機とはなんぞや、と。それって単に勝ち馬に乗ってるだけなんじゃねーの? http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070501%23p1 のブクマコメントやら元エントリやらを見ての感想。
なんかモヤモヤしてきたので追記。
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20070501#p1
エラいよ。ボーっとしてても感じとれる受動的な「感情的消費」よりも、能動的な要素が関連する「知的鑑賞」の方がエラい。なぜなら能動的な態度はエラいから。「頑張っている奴の方が頑張ってない奴よりエラい」ってのは近代以降の社会の大前提でしょ?
だから知的鑑賞をするための努力をしないやつ、向上心のないやつは馬鹿にされていい。てか、馬鹿にされたってべつに死にゃーしないし他の実害もないんだからいいじゃん。
もう少し話を進めるなら、馬鹿にされてムキになってキレるやつ、必死で反論するやつって、「知的鑑賞」に憧れてる人だよね。憧れてても届かないから「知的鑑賞のできるやつがそんなにエラいのかよムキー!!」って怒るの。まったく興味がないひとは黙々と「感情的消費」に勤しんでるもんでしょ。勘違いされたくないけど、日記の過去ログを読むに高橋直樹氏がそういう人だとはまったく思わない。そういうことが言いたいのではなくて、なんで高橋直樹氏はそのような「向上心の裏返しのルサンチマン」を元に、他人の足をひっぱることに必死なハンパヤローたちを擁護しようと必死なのかまったくわからないということが言いたいのです。
正義感とか、観念的な話で盛り上がるのもいいけど、学術的、定量的研究をもとにして話をするとエラい人に見えるかもよ。ということで、タダで全文あるいはアブストが読める研究論文をいくつか。