はてなキーワード: アレンとは
やぁ、元増田だ。
どうやら、本当にわかってない人達がいるようだね。
http://www.suzaku-s.net/2007/12/kosei-kyouiku.html
http://anond.hatelabo.jp/20071214154638
円環的時間に子どもを閉じ込める、というのは、どういうことか。個性を育てる教育とか要らないとか、ゆとり乙とか、そういう話じゃない。
http://oku.edu.mie-u.ac.jp/~okumura/blog/node/1870
ある方からのタレコミ。小4のお子さんが学校で長方形の面積を横×縦で計算したら減点された。学校に問い合わせたら,担任にも教務主任にも縦×横が正解と言われたとのこと。横×縦でも同じになることを自分で見つけたならば褒めるべきところを減点するようでは,創造性を伸ばすなというようなもの。
こういうレベルの話だ。俺は30年くらい前に小学校の作文授業で、「習っていない漢字」を書いたことによって減点された(日本語としては間違っていない。ただ、「まだ教えていない」ことだけを理由に×をつけられて減点された。理由も明記されていた)。「ゆとり」時代にカリキュラムにあったかどうかは知らないが、「つるかめ算」を意図しているであろう設定の問題で、空気を読まずに二元連立方程式でさっくり解くと、×になる。あくまでも、つるかめ算の操作を暗記して再現するのが算数のテストの答え方だという。ちなみに、ちょっと気の利いた学習塾などに行くと、さっくり解いたあとで求められる操作に数字をあてはめておくといいことぐらいは教えてくれる。このほうがまじめに空気を読むよりは速い。でも、答案用紙に連立方程式の痕跡は残しちゃいけない。
学習指導要領をどう弄ろうが、これが日本の公教育のスタンダードだ。
毎年、「あまり代わり映えのしないこと」(これ自体は、初等・中等教育では、ある程度はそういうものだろう)を教えつづける、という円環的時間の中にいる教師が、生徒を育てるのではなく、自分の授業が自己完結し続けるという循環の材料として子どもを使うという構図だ。その中において、教師の授業の「上を行く」子どもの行動は、夾雑物として扱われる。
一見、「創造性を育む」ようなお題目の内容であっても、「どのような流れでどのような形の解答にたどりつくか」ということが、教師の想定範囲に留まることが求められてしまう。そして、これは個々の授業内容に留まらず、どういうカリキュラムを学校として提供するか、という学習指導要領などの作成にも反映されているし、さらに敷衍すると、社会形成の全てにわたり、よくみる若者カルチャー叩きの構図と重なっていく。文化として、別に良くも悪くもない、というか、どうでもいいことが、単に老人の分からないということだけで罪悪視される。
モンスターペアレンツ叩き事例をよくみると、茶髪やピアスといった、それ自体は正直どうでもいいことについての「生活指導」に対する親の異議申立てが混じっていたりするよね。もちろん、それは自身が茶髪であったりピアスをつけていたりする親への叩きにもなっていたりする。
なんてことを書かなければもう少しまともな文章になったのに。
こういうのが親としての当然の権限・権利行使?
http://anond.hatelabo.jp/20071211052203
まともな事実!!? www
結局のところ、日本の指導的ポジションにいる老人達は円環的時間のなかに子どもを閉じ込めて、自分達の予期可能な範囲のことしか出来ない人々だけを生産したいってこと?
イノベーションとか口先だけだよね。社会を変革できるような人材、したいような人材は、叩き潰したいと思ってるんじゃないかというか。もちろん、子どもの親は、彼ら老人より若いので老人達とは考えが違うので、信用されていないし、決定権も奪われている。「モンスターペアレンツ」って、要はそういうことだ。親としての当然の権限・権利行使にはモンスターのレッテル。
梅田もっちーとか、エンタメとしては読まれても、あそこで肯定されているような人材がうまれやすい環境作り、なんて話は、フルボッコで否定だよね。うちの会社も、もっちーを社内講演に呼ばなくなったな。もっちーから切った可能性もあるが、どうも会社的にああいう話は禁句になったっぽい。一次元の価値観の中で、ある層以上は官僚か大企業サイコー、地方では地方公務員か教員、これ。そこからこぼれそうな人達は、それなりに。さらに下に非正規雇用。「けものみち」なんてものは、あってはならない。あったら生コン流し込んでおけ。「学習の高速道路」?日本にあるのはアメリカのフリーウェイじゃなくて、料金所がたくさんある有料道路。そして、学歴という通行許可証を集めないと、通ったことにはならない。
そして、ネットのコミュニティ、なんてものからは子どもを切り離せ!!!という大合唱。もちろん、大人になっても、ネットのコミュニティに参加しない、参加しても二次的、というのがいいこととされている。コミュニケーションは、地縁・血縁・学閥・職縁つながり。結婚はもちろん、そういう縁つながりの見合いが恋愛結婚より格上、ネット恋愛とかは論外、という価値観。
それで、どう世の中みんなが食っていけるのか、よく分からんけどさ、経済のパイを増やすよりも、そういう序列と秩序の維持のほうが上、という空気が、最近満ち満ちているように感じる。
ちょっと長いが聞いてほしい。
近年の子供は、集団による言葉攻めや、相手を孤立させる村八分などの、ちょっとした暴力よりもよっぽど凶悪な攻撃を行う。
携帯メールなどが普及したこともあり、その手口はますます陰湿で極悪になっている。
そしてなにより、虐めがあまり気軽だ。まるでメンコで遊ぶ感覚で虐めが行われる。
通常このような虐め、すなわち攻撃にあった子供は、状況を打破するために反撃を試みるはずである。
孤立させられている状況を考えると、反撃の手段は拳によるものになるだろう。
反撃は攻撃を、すなわち虐めを緩和させるための防衛手段だ。
攻撃者も、反撃というリスクを理解していれば、いじめにも慎重になる。虐めは無益だと気づくだろう。
攻撃すれば反撃される、必死に抵抗される、場合によっては自分も致命的なダメージを負う、
というシステムは動物でも熟知している自然の摂理だ。当たり前のことである。
ところが、虐められた子供が虐めた子供を殴ると、どういうわけか虐められた子供が非難される。
理由はどうあれ、最終的に暴力を振るった人間、相手を目に見えて傷つけた人間が最も悪いそうだ。
もし、このようなシステムを許容すると、できるだけ早く虐めを始めた子供が圧倒的優位になる。
相手を孤立させて虐めれば、反撃の手段を拳に限定できる。
しかし拳は「暴力はよくない」というステレオタイプにより禁止されている。
虐めても、顔に傷を負うとか、目をつぶされるとか、そういったリスクがない。
昨今の加害者過保護の風潮もあいまって虐めが発覚しても、それほどしかられることもなく、処分を受けることもない。
虐めが気軽に行われるのはリスクがないからである。虐めはノンリスクなのだ。
最後のストッパーになるべき教師も、昨今ではもはやただの案山子、親御の奴隷。
ノンリスクであるから、虐めに歯止めがきかなくなる。やり放題だ。
虐めの標的になった子供はサンドバッグになるしかない。逃げるしかないのだ。
どこに逃げるのだろう?
引っ越すのか?
人格を消すのか?
死ぬのか?
この状況に疑問を持たない大人はいないだろう。
モンスターペアレンツの問題も、学校へのクレームに関するノンリスクが問題ではなかろうか。
言い放題なわけだ。結果として教育現場が混乱し、自分の子供のデメリットになるのだが、そのリスクを理解していない。
そのようなシステムの穴、ノンリスクを利用する人間は、悪人か馬鹿である。
自分の子供がノンリスクを悪用する馬鹿に成り果ててもよいのだろうか?
それは虐めた子供にとっても自然のシステム、行動とリスクを理解させるチャンスであり、
虐められた子供にとっても自分を守る手段なのだから。
リスクを理解できなかった子供は二世モンスターペアレンツになるかもしれないし、
守ってもらえず、同時に自分の身を守る手段を奪われた子供は人間不信になるかもしれない。
どちらも攻撃者となれば、それはけんかである。子供のけんかは大賛成だ。
けんかを許容するシステム。ある程度のけんかで仲裁できる教師。
今の日本にはこの二つが必要である。
それにしても、現代人は「暴力は悪い」というステレオタイプに踊らされすぎではないだろうか。
私は正しい暴力もあると思うのだ。
自分の中学ではイジメとかカツアゲとかハブりとか村八分とか教師虐待とか日教組とかモンスターペアレンツとかはあったよ。クラス内でで授業を聞いてノートとってるのが自分だけのときもよくあったし日教組系の教員からいわゆる自虐史観教育も受けたし不登校はクラスに数人はいた。
その他諸々の不吉な単語やらとは全く無縁だったように思う。
(声がこもってる。なんか不潔。目が暗い)キャラなヤツも
ふつーにみんなと談笑してたし
様々な奇行を経て(主に厨二病)、
うざったらしいくらいに連中、机くっつけてくるし。
先生もまぁタマにキレることあったけど
時には冗談をまじえつつ、
その実やっぱり自分の武勇伝を語りつつ、
平々凡々な面白みの無い授業をするふつーのセンセだったし
みんなもそんな授業をとりあえずは
真面目に受けてる風に取り繕うふつーの生徒たちだった。
もちろん、たまにお茶目がすぎることもあったけれど。
先輩後輩関係も至ってふつー。
表面上は敬語を使いつつもおちょくったり、おちょくられたり。
他校の友人の話で世の中には「下克上」なるものがあるというのを知ったときは大層驚いた。
そりゃまぁ、万引きで呼び出されるワルも一人二人いたさ。
でも、そいつらだって人をイジメたり、傷つけたりするような奴らじゃなかったし
万引き発覚しても一日二日たてばまたみんなとフツーに馬鹿やってた。
だが、俺らには関係ない子だったし、
理由なんて気にする必要ないだろ?
俺の周りはふつーに平穏だったんだしな。
そうだろ?それで良かったんだ。
何を俺は今更不安になってんだ?
単にオイラの読解力が無いだけかもしれない、という言い訳から入るけど。
http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070211/p1
別に『賃金水準は、絶対的な生産性で決まるんじゃない。その社会の平均的な生産性で決まるんだ。』って部分にそんな文句はないけど、とにかく煽りすぎだろこれwwwww
前回述べたように、こうした企業が高い生産性を実現できるのは、その他の人々の支えがあればこそ、ではある。そうはいっても、やっぱり肝心なのはすさまじい労働生産性を達成している製造業なんだよ。
とりあえずこれを信じることにして(http://anond.hatelabo.jp/20070212044554って意見はあるけど)、これと
実はサービス業の多くは、あまり生産性が高くないんだよ。(中略)でも、だからこそ第三次産業/サービス産業は雇用吸収力がある。
これで、何故
になるのかさっぱり分からん。教えてエロイ人。
はてなに巣くうお気楽大学生どもが、バイトで途上国の高級官僚の何倍ものお金を稼げるのも、究極的にはシャープやソニーやスズキのおかげなんだよ。腐ったアーティストだの、エコロジストだの、勉強不足の新聞記者だの大学教師だのが高い給料をもらってのほほんとして、大企業批判にうつつをぬかしていられるのは、実はかれらが往々にして忌み嫌う大企業の大量生産システムのおかげなんだ。2ちゃんねるに巣くう(一部の)くされニートどもだって、その安楽な生活はかれらがとかく批判したがる大企業が高い生産性を実現している余剰にたかっているだけなんだよ。
んじゃもう、生産性的に(比較的)労力の無駄食いが多い部分なんてゴリゴリカットして、99%ってのは多少言いすぎにしても、これからは大企業様の恩恵を賜りながら僕ら皆でニートしてりゃいいんじゃね。マジで。出来ればその方がシアワセだと思うよ、僕は。
後どうでもいいかもしれないけれど
もっと卑賤なほうへ! メイド喫茶の女中さんがいる。日本の女中どもは、やはりメイド喫茶のあるタイの女中さんの数十倍の時給だ。どうして? 日本の女中さんはなんか手際がいいの? 目にもとまらぬはやさでオーダー取るとか? 「お帰りなさいませご主人様」というのを 100 倍の速度で言えるとか? 日本ならタイの女の子の 100 倍の媚びを売って、萌え度 100 倍、タイの女中喫茶なら平気なキモヲタくんが、アキバの女中喫茶だと店に入った瞬間に萌えオーラでいきなり射精とか? ねーよ。
ここの小見出しが『生産性の国際比較――サービス業は世界的に大差ありませんわよ』なんだが、サービス業をこんな感じで比較することに意味があるのか?よくわからん。タイでティーポット傾けられても、日本のご主人様のティーカップには一滴たりともお茶は入ってこねーべ。
あー、感覚的に世界を縮めまくってるとか?
それなんてストレイト・クーガー。
たとえば、ぼくは先日、ウィリアム・バロウズ&アレン・ギンズバーグ『麻薬書簡』という本を訳した。所要時間は一日半。しかも品質最高。一方、この本には既訳があって、某大学の先生がどっかに缶詰にされて「たった二週間で仕上げた」と自慢し、しかも「やっつけ仕事だ」と自負なさるとおり、目を覆うばかりのまちがいだらけ。この場合、ぼくの生産性と、この大学の先生の生産性のちがいは簡単に計算できる。時間だけで見ても、ぼくの翻訳の生産性はこの先生の 10 倍弱。品質を考慮すれば 20 倍以上だろう。
どれだけ数量作れたって、価値が無けりゃ意味が無いんじゃないんですか先生(いや、別に翻訳本に価値が無いって言ってるわけじゃないです)。生産性って生み出した物そのものによるのか?生み出した価値によるんじゃないのか。
上のメイド喫茶の話でもそうだけど、なんかこの辺りが(主に僕の中で)よく分からんことになっとる気がする。タイで「お帰りなさいませご主人様」って言われても、その笑顔も見えなきゃ声も届かない日本のご主人様にとってはほぼ無価値だもんなぁ。