はてなキーワード: 理学とは
アメリカでの公立大学、つまり州立大学の歴史を紐解くと、実学を教える専修学校のようなルーツであるらしい。
そんなものは金持ちの息女が行くところ。
で、日本をみてみると、お金や仕事に結びつくところは私立の専門学校、企業系の研究所がになって、大学はそれでカバーできないお金と無縁のところばかりやってるようにみえる。
お金儲けに結びつくところは学問として下という風潮があるように感じる。
実世界で役立つ知識よりも人間的なレベルアップを目指してるような。
特に国公立は。
でもなぁ、貧乏人が成り上がるためにはまずは金になる仕事に就くための教育でしょ?
たしかに、「学問の自由」は大事だと思うよ。
でも、国公立大学のスタンスって高学歴ニートを作る土壌にはなってるような気がする。
俺も院生。彼氏は博士課程?「院生」ってだけじゃ、何の情報にもならないんだよね。分野によって、ホントに状況違うから。少なくとも、文系・理学系・工学系、ぐらいは教えてもらわないと、なんともコメントのしようが。
>ネットで調べたところ彼の分野は特に、大学の先生になるのが難しいらしい。
大学教授になるのが難しいのは、どの分野もそうだと思う。ただし、分野によっては、大学教授でなくとも、研究できるポストがあるところがある。
ホントに分野によって、まちまちだから、同じ分野の人に聞いたほうがいい。
http://anond.hatelabo.jp/20081123023437
> 「少なくとも体罰で傷つくことは防ごう!」
怪我をさせないってこと?それなら、傷害罪としてコンセンサスは取れてるからいいんじゃない?傷付かないレベルの体罰はOKと。
と言う事になる。これじゃあ、オリンピックレベルのエリート教師でもなきゃ、とても教育なんて出来ない。(まあ、はてサは教師と児童の非対称性に反発してるんだろうから、これを受け入れない理由はないはずだけど)
「言葉の力」なんて言ってる奴も居るけど、そう言う奴は懲戒的要素を含まずに、純粋に説諭だけ(もちろん長時間だと苦痛だから短時間で)で指導が出来ると思ってるの?結局、懲戒して子供に苦痛を与える事で指導してるのだから、目糞鼻糞。説教にしろ体罰にしろ、所詮はどっちも「自分がこの人をこの程度怒らせる事をした」という信号であり記号であって、生身の生き物として受信が容易なのは体罰でしょう。
どうすればいいって、一時的な苦痛ではなく、心身いずれかに怪我をさせたらだめ、でいいような。
http://anond.hatelabo.jp/20081123161858
そこから話は突然「今年だけで法政大学の学生が20人逮捕された」という話に。
しかもほぼ起訴されたと。
20人てけっこうな人数だ。早稲田の麻薬禍よりひどいではないか。
しかしアジる人たちいわくそれは冤罪であり国家権力の横暴であり
保釈金を1人400万要求されている、彼らは何も悪いことしてないのに!
逮捕された理由一覧
政治活動したいなら別に大学の敷地内に拘る必要ねえじゃんという当たり前の状況判断すら出来なくなってる連中だから、なるべく(物理的に)近づかない方がいいよ。
大学側から再三止めろと言われてた点は無視するんだよな、こいつらって。
「科学と似非科学の議論はそもそも論点が定まっていない。」ということに問題があると思う。
俺は科学は実用上では「真理」として十分に認める価値があると思う。
しかし一方で、科学を「正しい」と決めるのが人間である限り、この世の「真理」、いうなれば絶対的真理(文法的にはおかしく見えるがニュアンスをつかんでほしい)とはなりえないのではないかという疑念をいつも持っている。
科学の実験結果を認識する人の認識の問題まで考え始めると、まさに宗教や文化的な考え方を完全には無視できなくなるだろう。なぜなら人の「クオリア」の問題は、いまだにこれらの哲学的な考え方を排除できていないのだから。そして、似非科学批判の批判(あくまで似非科学批判の批判であって、似非科学擁護ではない点に注意)がされるときはよく、この「絶対性・真理性」が話題に上る。
いっぽうで俺の視点からすると、似非科学批判者は、実用上での「真理」が問題だと考えているように思う。こういった論客たちは、おそらく科学の問題に哲学的な考えを導入する必要はない、似非科学を使って悪用しようとする人間が排除されればいいと考えているのかもしれない。
結局この問題は共有した論点が設定しにくい、というよりほんのわずかにしか見えない少しの溝が、世界をまったく分けてしまっているのではないかと思う。
似非科学批判者にはどうかわかってほしい。
俺のような似非科学批判の批判をするようなものは、一見敵対してるが、本当はまったく違う話をしているのだ。
おそらくはてなにいる論客たちの多くは、どちらの立場にせよ、似非科学によるまやかしを憎んでいる。
ただ、俺のように、科学を哲学的な目線から見て考える、哲学者もどきみたいなやつもいる。
それは科学を「真理」ととるか、とらないかの違いである。それはある種、工学者と理学者の違いのように、学問の「深さ」に対する考え方の差であり、じつはお互いを必要としあう関係なのかもしれない。だから、そろそろお互いがののしりあうのはやめよう。お互いの違いを認めるのも時には大切なことだ。
追記
「そういえば、こないだ夜、Hさんから電話がかかってきて、"増田はモテるために教授をやってるとか堂々と言えて羨ましい"って言ってましたよ」
「え、そんなこと言ったかな」
「ほら、工学部で。"増田さんはどうして世界に拘り続けるのか"みたいな質問をされたときに、"あなたと違って僕はモテないからだ。ノーベル賞が取れる理学系が羨ましいから、僕はその何倍も頑張る必要があった"みたいなことを言ってたでしょう」
「ああ。まあそう言ったかもね。助教のときの話だけど」
「まあでもそれって嘘ですよね。本当は研究優先で女性はほったらかしじゃないですか?」
「ああ、そうかも知れない。だいたいそれで愛想を尽かされる。だいたい、本当にモテたいんだったら、教授より良い仕事はいくらでもある」
「Hさんに"Hさんも教授なんだから言えばいいじゃないですか"って言ったんですよ」
「ああ。それで?」
「そしたら、"言えないよー。そんなの絶対。恥ずかしくて"なんて言ってて。あ、Hさんは本気でモテるためにやってんだな、と思ったんですよね。それでちょっとガッカリしたというか」
教授には二種類居ると思う。暑苦しい教授とチャラチャラした教授。
前者は自分の夢を実現するための手段として研究室を必要とし、それを維持・拡大するために教授職を引き受けている。この場合の夢とは、研究上の目標とほぼ完全に一致している。故に暑苦しい。毎日のように夢を語り、自分と周囲を奮い立たせ、目標に向かって邁進する。
そのかわり、ケチ臭いところもある。服や食事にお金を使わない。人付き合いも悪い。
後者、すなわちチャラチャラした教授は、教授で居ることが目的化している教授である。
自分を本来の能力以上に大きく見せたい、派手なことがしたい、チヤホヤされたい、そのための手段として社長をやっているのであって、そういう人にとってもっとも目指すべきことは研究室をできるだけオシャレに保つことである。
そうしないと自分が教授でなくなってしまうからだ。こういう教授には、長期的な目標や、将来へのビジョンはあまりない。あったとしても、極めて近視眼的なものか、荒唐無稽なものが多い。ファッションでやっているのだから、ビジョンなんか真面目に語ったってしょうがないのだ。できるだけ派手なほうがいい。
こういう人たちに僕はファッション教授というニックネームをつけることにした。
僕が人と話をしていて、ウマが合うな、と思う教授は、暑苦しい教授の方である。
暑苦しい人は、10分も喋れば大好きになってしまう。
その暑苦しさが、本当に研究に打ち込んでいるから滲み出ているものなのか、それとも暑苦しいファッションを纏っているのか、目を見ればすぐにわかる。
暑苦しいだけで研究ができない教授もいれば、チャラチャラしてるように見えても研究の方ではキッチリ論文を書いていく人も居る。
結局、どっちであっても研究室がちゃんとした研究を行っていれば問題ない。
けれども僕はやっぱり、暑苦しい人の方が好きかな。