はてなキーワード: 猜疑心とは
それが現実の展開になるなら、通告がなされるまでの外交経緯をみて、日本の安全保障や日米同盟の質も変化するだろ。
君のエントリをみると、「ある日突然、中国が条約を無視して攻め込んで来る」なんて想像してるようだが、中国がそこまで好き放題できるようには世界はなっていない。
その頃とは時代が違うし単純には比較できない。中印紛争では中国は自発的に撤退したし、中越戦争での占領もごく短期間だ。
最近を見てみれば、中露国境問題はほぼ解決のメドがたったし、中印国境問題も視界は開けてる。東シナ海ガス田は共同開発案が具体化しはじめた。「東シナ海を協力と友好の海に」ってやつだ。
一方で竹島で韓国と一触即発状態になり、今は尖閣で台湾とにらみあい、北方領土は解決の見込みがまったくついていないのが日本なのだが。
ひょっとしたら侵略という言葉を東トルキスタンやチベットに使いたいのかもしれないが、国際政治主体でチベットと新疆を中国領土と認めていない国家はないよね。
拒否権についていえば、中国が拒否権を発動したのは昨年のミャンマー政治囚釈放要求決議が最新で、その前が1999年のはず。
これまで行使した総計も5回で、アメリカの80回やロシアの120回に比べると可愛いもんだ。
つーか、米朝平和条約が結ばれる形勢を見せてきたこの時代に「表に結ぶ条約も、心の底ははかしれず、万国公法(国際法)ありとても、いざ事あらば腕力の強弱肉を争うは、覚悟の前の事なるぞ」ってか。
日本人の国際政治下手とか被害者意識で行動しているうちにアジアの侵略国になっていたとか、こういう猜疑心からもたらされるんだろうね。
俺も同じくらいの年齢まで彼女なしで、同じように告白してつきあった。
ひとつ違うのは、相手のことが好きかどうかわからないままに付き合ったことと、
相手が俺に告白してきたときに、相手にはつきあってる男がいたこと。
相手は男と別れてから俺と付き合う、と言っていたが実際には少し期間がかぶってたと思う。
相手のことを好きかどうかわからなかったとはいえ、いい加減に付き合ったつもりはなかった。
付き合う以上は真剣に付き合おうと思っていた。
しかし恋愛経験皆無の上にそんな不安定な状況で、けっきょく俺は相手を酷く傷つけ、
短い期間で別れることになってしまった。
自信を持つのは難しいだろうが、劣等感は猜疑心や嫉妬に繋がるからほどほどにな。
相手のことを思いやって付き合っていけばきっと大丈夫だ。
そして、仮に、仮に失敗したとしても、そこから多くのことを学べるだろう。
愛することを恐れるな。
そして努力したいなら、愛されることを求めるのではなく、
「俺にもっと惚れさせてやる」にはどーすればいいか考えてやってみな。
ひょんなことから立場が上がってしまった。
ほんとうにただの偶然のようなきっかけで。
ようするに上のひとたちがばたばた倒れたので、単なる繰り上がりだ。
ほかはみんなアルバイトの二十歳そこそこの子たちなので、年長で経験値の順を考えると残ったのが自分しか居なかったのだ。
断る余地もなかった。何故なら知らないうちにそう決まっていたからだ。
それでも今の仕事が好きなので離れる気も無く、努力だけはしてみようと思ったが、上が倒れた後だけに、「倒れない」というだけで誉めそやされているような状態で、非常にもぞもぞする。「倒れない」「やってみようとする」という心意気だけで大切にされ、今度こそ逃がさないというようにやさしくしてもらっている。
そうしたら、どんどん、自分のやっていることがわからなくなってきた。
自分が今やっていることはちゃんとした仕事なのか?
それとも、出来ていない分を周りが目をつぶってくれているだけなのか?
自分から見ても足りないところがたくさんあるのに、どうしてみんな何も言わないのか?
唯一直接の上司だけががみがみと厳しく指摘してくれるが、それにはそれでついていけていない。求められているものに対して「まだ無理だ」と思われた故の人選だったのに、ひょいとあがってしまったがために上司も「無理だと思った」はずの自分に言わねばならず、苦悶しているらしいと聞いたが、なんにせよ自分は自分の位置における「やるべきこと」を果たせていない。けれど周囲はやさしく、すごいすごいともてはやすので、だんだん猜疑心ばかり強くなってきてしまう。
なんか自分が普通じゃないと思ったのは中学生の頃だった。当時は邪気眼こそないものの、それはまさしく中二病であって間もなく鎮火、大学生になる頃にはいかに世の中を取り入れるかを腐心し始めていた。だから本格的におかしいなあと思い始めたのは20を過ぎたあたりだ。
学生は制限も無くチンタラと生きているだけなので別に困るようなことは無い。が、ぼんやりと問題が見えてき始めた。なんというか、人付き合いとか、価値観とかが合わない感触があるのだ。
人付き合いの点ではある種の相手の臆病さと猜疑心に失望させられてしまうということ。駆け引きと横並びの圧力が当然なんてちっとも良く思えない。価値観ではそんなのどうでもいいんじゃねえのというものを真剣に求め、自分にもその興味を求める。人それぞれでいいじゃん。
こういうと高二病とか大二病とかいわれるかもしれない。お前だって十分打算的だよとか、斜に構えてるだけじゃねえのと。そうかもしれない。所詮子供だったしね。でも今でも良くわからない。
まあ学生はそれでも良かった。別に困らないから自分と合わない人とは付き合わなければいい。おかげで平安だった。
社会に出るとまた違った圧力がある。日常を普通に暮らすためには様々な人たちとよろしくやっていかなければならない。書くほどのことも無く、当然のことだ。
しかし前述の通りなんだか合わない部分もある。当時は自分が幼稚で社会性が乏しいのだと思い、合わせることができるように少し努力してみた。ありていにはテレビでバラエティと野球とサッカーを見て話題を合わせ、イベントごとに飲みに行き、皆が振舞うように溶け込めるようにしてみたのだ。ささやかなことだが、それがオトナだと。
最初は上手く行った。なんだこんなことかと思ったりもした。実際に楽しいし皆と同じようにしている安心感もある。
しかし自分で意識から除外してきた鬱屈にやられた。徒労感みたいなものが蓄積され精神的に壊れたのだ。
すったもんだと揉めて会社を辞めて数ヶ月ぼんやりしていた。そしてやはり自分が子供なのだろうと反省していた。
その後反省を生かしてストレスを溜めないようにしながらも社会性を獲得するように再び努力してきた。また仕事を得て、結婚し、子供をもうけ10年が経ち、そしてまた壊れた。
今は何もする気が無い。
結論は無い。分からないんだ。普通は苦痛だ。でも社会性の無さを肯定できるほど子供でも無い。そう、特別な存在としての「普通でない」なんかでなく、平穏でない意味で自分は「普通でない」のだ。
大した願望があるわけではない。今の自分は普通であるための知識と付き合いに家族とローンと将来の備えと自分の動機以外で埋め尽くされている。そりゃ全部大事だ、だからなんだ。
妻は病院に行けば治るんじゃないかといってくれる。過労による一時的な鬱、確かにそうかもしれない。でも本当にそうなのか?
俺はオカしいんじゃないのか。普通じゃないんじゃないの。普通の暮らしを望むことこそが本当の問題だったんじゃねえの。ふつう、普通は幸せなんだろ?
もしもし、みんな幸せか?
今日PHSからこの「何故浮気はダメなのだろうか 」というエントリーを読みました。
http://anond.hatelabo.jp/20071128082705
数ヶ月前に、かなり長い間片思いをしていた相手とようやく付き合うちょっと手前までいったかな。という時期に「まだ一人の女に縛られたくはない。もっともっと遊びたい。結婚を考えるのは自分が十分に遊んだと思ってからで良いと思う」と言われて、彼に対してずっと長い間持ち続けていた「好き」の感情が何か憑き物が落ちるように一気に冷めていったことを思い出しました。
どうして一気に恋愛感情が冷めていったのかは、この人の理論からすると「よく分からない」と言うことになると思います。
でも今何となく思うことを書いてみると、やはり
「あなた」と「私」の関係は、それは何も「彼氏-彼女」の関係である必要はない、そんな風に呼ばなくとも、この世界において、唯一無比のかけがえのないものなのである。いや、むしろ「彼氏-彼女」の関係と世間一般の概念で定義する事のほうが、我々の関係の「かけがえのなさ」に対する冒涜ではないか?
つまり、私が誰と仲良くしようとも、あなたとの関係は唯一のものであり、その価値は少しも貶められないのである。浮気なんて少しも気にする事はないのだ。パートナーの動向に常に目を光らせている監視社会よりも、みんなが自由で仲良くできる世界の方が、余程すばらしいと思わないか?
こういうことを言う人と、「唯一無比のかけがえのない関係」を長期間にわたって築くことができるというのは論理矛盾しているようにも感じたからなのかな、と思われるのです。
人の心は、時間が経つと平気で変わってしまいます。
だからこそ、約束や紙切れで絆をつないでおかないといけない。
こういう発言をする相手が、明日も「あなたとの関係は唯一のものであり、その価値は少しも貶められない」と言う発言をする保障は、どこにもありません。
昔から人は信頼できるパートナーと愛し愛されていないと、どうしても心が安定しないものです。
多くの人が書いたように、それはその時代の結婚の形態によって必ずしも一対一の関係ではなかったのかもしれません。
私はやはり信頼できるパートナーと愛し愛される人生を送りたいと思っています。
毎日が嫉妬と猜疑心と絶え間ない諍いと苦しみで塗りつぶされる生活を送るのは、精神が持たないように思います。
朝起きたら何となく幸せな気分で目が覚めて、夜寝るときには天の神様と、隣にいる最愛の人に最大限の感謝をしてから床につきたい。
そんな風に思います。
蛇足:
かつて大杉栄が「自由恋愛主義」を唱えて、別に相手がいても自分が恋愛するのは全くの自由。パートナーが恋愛するのも全くの自由。ということを実践していたのですが、その結果がどうなったのか。。。と考えると、「浮気は自由」というのは難しい点があるなと思います。
付和雷同しやすい人のほうが議論できるのでは?相手を信頼してないと迎合できないし、なんでも否定的に見る人は猜疑心強すぎで議論が成り立たない。
気にすることなく、人を愛しなさい。
あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。
気にすることなく、善を行いなさい。
気にすることなく、やり遂げなさい。
善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい。
あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。
気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。
あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。
気にすることなく、作り続けなさい。
助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。
あなたの中の最良のものを、世に伝えなさい。
蹴り返されるかもしれません。
でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。
みんなどう思う?善も悪もなくて善を成すのも悪を成すのもみんなエゴだから悪だっていう人もいるけど、そんな猜疑心だけで生きていたら世の中も人生も殺伐としたものになっちゃうよ。自分の内なる良心を信じてそれを遂行出来る人はやっぱりエライところがある人なんだと思うよ。
信じられないことを込みで相談すればいいのではなかろうか。
妄信的に信じぬくより、前もって猜疑心をもって相談すれば
失礼かもしれないが、自分の精神衛生上は楽になれようぞ。
こんばんわ。ちょっと私の話を聞いてくれないでしょうか。私は現在予備校に通っている浪人生なのですが、私は高校時代、高校を中退しました。色々あって鬱病になって中退したのですが、その鬱病の原因はもちろん自分にもありますけど、自分の場合は親にもその責任があると思っているのです。親に学校での人間関係について相談しようと思っても、親はまともに取り合ってくれず、自分はますます悩みをつのらせていって、最終的には布団から出ることのできないほどめためたに打ちのめされて、それで高校を中退しました。
それで親が「どうして学校にいってくれないの!」「お前の考えていることが分からん!」と言って、自分はなし崩し的に精神科の先生にお世話になることになったのですが、そこで先生と親の話していたことが、ああ、どうしてこんなにも親は自分のことを分かってくれないのだろうか!というような内容で絶望しました(幸い、精神科の先生は非常に良い先生で、今では彼が自分の相談役となっています)。
それでしばらくは気ままに暮らしていて、その時は親は何もいわなかったのですが、そろそろ大学進学を考えなければならないということで自分は予備校に入りたい旨を親に伝えました。親は了承してくれて、はれて自分は予備校生になったのですが、そこでの人間関係でまたストレスをためて「あぁ、死にたい??」ってな感じになりまして、それを親に伝えたら「アナタはどこに行ってもそれね。そんなことじゃ社会に出て生活できないわよ」といわれて、ああ、確かにそのとおりだな、自分みたいな落伍者は生きている価値なんか無いんだな、と思って自殺を考えたのですが、勇気が出ず、自殺はできずじまい。結局親に「予備校に行っている」とウソをついて、昼間は本屋などで時間をつぶしています(時々、本屋にいるのがつらくなって家に早めに帰ることがあるのですが、親は自分が何時から何時まで予備校に行っているかを把握していないので、怪しいとも思わず「早かったね」と言葉をかけます。そのことも自分を苦しめます)。
家に居ると今までは何も言われなかったのですが、最近は「勉強しなくていいの?」とかそういうことを言ってきてその言葉に精神的に押しつぶされそうです。確かにもともとは自分が高校を中退して、普通の人とは違う道を歩むことになったことが親との軋轢の原因となったので、責任の一端は自分にあるとは思うのですが、どうも納得がいきません。と言うか自分はどうしたらいいのでしょうか。「なんかワガママなやつだなあ」とこの文章をお読みになった方はお思いになるかと思います。そのとおりです。自分はとにかくワガママで、ここで親に対する猜疑心をつづりつつ、金銭面ではどっぷりと親に依存している人間なのです。こんな自分はまずどうするべきでしょうか。教えて増田さん。
この世の金のからむ問題の9割は金以外の問題に辿り着く。ニートやフリーター、自分の望まない労働に従事している労働者などは何度も「金さえあれば」という叫びをあげてきたが、それは同時に「金儲けして誰かを安心させたい」とか「我が子に望む道を与えてやりたい」という人間らしい思いからだった。どんな金持ちだって、ぽっかりあいた心の隙間は埋められない。自分と周囲の人間が幸福に暮らすだけの十分な金があってなおがつがつと金を求める人間は、一般におそらくかなり奇異視されるか、よくて軽蔑されるだろう。
「お金は何よりも大切だ」などとのたまう人間がいるが、とりあえず十分な金を持ってから喋れ、と言いたくなる。そんな言葉をいう人間は、とりあえず金には困らない生活、すなわち人間らしい人生を体験したことがないからそういうことをいうのである(あるいは人間らしい人生を送っていたこともあるが、その価値を理解しなかった)。それに今は、金だけあっても何にもならない時代なのだ。大体、金が無くても人の心を掌握できている状態(尊敬されている状態)は望んでも得られる物ではないし、周りに誰もいなくても金がある状態の生活の心寒さは時には致命的ですらある。使える金だけは捨てる程あるのに好きでもない酒と女に溺れて身を持ち崩し薬で死ぬ金持ちの馬鹿息子を見ていれば、たとえ食べるものに困る日があっても、とりあえず家族が笑い合えて幸せに暮らせる名も無き市井の生活の方がどれだけ豊かかなんてことは簡単に分かる。どんなに金があっても、豊かな家族愛や自尊心を持ちえていない人間は死ぬしかないのである。「金無き生など生きるに値しない」と反論する人間もいるだろうが、そういう人間は社会に出たことが無いのだろう。金を中心とする価値観など日常の生活の中で簡単に破壊されうるものである。たまに、どんな仕打ちを受けても金への執着心を失わず、守銭奴のように振舞える人間がいるが、そんなもの全体のうちのごくわずかの事例であり、問題ではない。普通の感覚で守銭奴の人生を一生送ることは難しい。豊かな人生を大切にする気持ちさえあれば逃げられずに済んだ妻、失わずにすんだ家族や命がどれほどあったことか。
いや、絶対的な虚無である死(あるいは不治の病)はどんなに豊かな人間愛があっても避けることができない、という人間もいるだろうが、それがどうしたというのだろうか。その問題は愛があっても無くても解決しようの無い問題であり、的確な反論にすらなっていないのである。それに、絶対的な虚無である死や不治の病のその最中でこそ、金があれば「金があるからこいつはオレの世話を…」などという猜疑心にかられ人は狂うものだ。
何度も繰り返すが、金さえあればこの世の問題のほとんどは解決できると思うのはちゃんちゃらおかしいのである。血縁関係とか社会的強迫観念(「働かないといけない」)とかそういうものを金に置き換えることが、人としての生き方を損なう非常な危険なのである。金に縛られる人生をこそ我々は恐れなくてはならない。
…というわけで、今すぐ金を捨てて私にください(笑)。