面白い歪みだ。
おそらくは、イメージを、統一的な、ゼロかイチか判別できるようなものととらえているのだろうか?
ディスクールであるとか言説分析ということばを聞いたことはないか?
たとえば、
ありもしない属性⇒ありもしないということを、だれがどのような基準で判定し、どのように関係者に納得させるのか?
たとえば、予防論を採る人間にとっては、なにがしかの予兆があればもはや実在に等しい。
判定や納得、議論、といった行為はすべて闘争的だとは思わないか?
イメージについては、個々人が各個に総体的に描き出した上で、個々人が各個で観測した結果に基づき、運動するのがよいと思われる。
賛同者が多ければ事態は動いていくのだろうし、そうでなければ動かないだけの話だ。
あとから大きく振り返った際に、ゼロだった(誤認だった)、イチだった(正当だった)、ということはいえるかもしれないが、
渦中でそれができるとすれば、単に運動に関わっていないだけの話だ。
>「何らかの属性に関わるイメージについて、なにかよからぬ付与がなされようとするときに、闘う」 「何らかの属性に関わるイメージについて、なにかよからぬ付与がなされよう」と...
運動のない世界で生きたければ、どうぞ運動を見なかったことにしてください。 たぶん、あなたの認識上では、フェミニズム運動とかもなかったことになってるんだろうね。 なにがし...
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法は人によってつくられ、人はことばによってつくられる。 ことば-イメージのよしあしの判断を「愚か」と指すのは おそらく処世術のひとつなのだろう。 法を作る人間にとってはそ...
全く何も理解できていないようなのでツリーを最初から読んでほしい(読んでも理解できないんだろうが) そちらの言う「ホリエモン未満」とやらにありもしない属性の傾向を実在する...
面白い歪みだ。 おそらくは、イメージを、統一的な、ゼロかイチか判別できるようなものととらえているのだろうか? ディスクールであるとか言説分析ということばを聞いたことはない...
存在すらしていないものを生み出す一番目になっているのは誰かという話をしていることを正面から受け止める気がないならもう何も言わない。