そこから、「いつかは〇〇も心変わりして俺からいなくなるかも」と恋人が弱音を吐いたりした。恋人の猫は恋人を好きなまま死んだのに、なぜ私が恋人を好きなまま死ぬとは思わないのかはよくわからないけど、恋人は命の儚さを悲しんでいるようだった。とりあえず、恋人が死んだら私も死ぬということで落ち着いた。あとから「死んじゃだめだよ」と言われたけどそれは知らない。
「お前にだったら殺されてもいい」と言ってきた片思いしていた友達と、「どっか行くなら死ねばいいのに」って言って首を締めてきた元恋人を経由して、「死んだら死んでね」と言う恋人に辿り着いた。
長かったのかなあと思う。やっとだなあと思う。
机の上に、恋人がくれたものがたくさん並んでいて、その中で一番にきらきらしているものが、わざとひびを入れているガラスの器だ。
ひび割れてしまった茶器に漆を入れた、その美しさを、火傷の痕を気にする友人に見せてあげたい。みたいなことを、梶井基次郎が書いていた。わたしはその文章が好きだった。ひびを美しいものだとする人はどの時代にも一定数いて、恋人はそのひび割れの美しさをプレゼントしてくれた。
恋人がこれをくれなければ、わたしは梶井基次郎好きーとか呑気に言っているだけで、ひびの美しさを実際に目にすることはできなかった。ヒモじゃん。と思う。恋人がいなければ結局何の文学もわからない。智恵子抄を恋人に勧めた行為が文学で、正直に読んでくれる恋人はもっと文学で、わたしが高村光太郎の詩を読むことは全く文学ではない。恋人がいないと、恋人に与えられないと、文学にならない。
どんなことも、恋人が教えてくれた。たとえば、スーパーに繋がれている犬も、桜も、最初に恋人が可愛いねえと言って撫でて、そのあとわたしに大丈夫だから触ってごらんと言ってくれる。恋人を経由して何もかも知りたい。わたしは目をつぶって、恋人はわたしの手に火を当てて、これが火だと教えて欲しい。