資本主義国に生きる我々は選択の自由があると思い込んでいるけれど、果たしてそうなんだろうか。
とある米国の社会学者が東欧出身の被験者に、「実験のお礼として飲み物をあげるので選んで欲しい」と言ったら、「全部ソーダじゃないか?」と言われたというのを読んだことがある。社会学者は選択の自由があることを見せつけようとして、実は根本的な点では選択の自由がないことを指摘されてしまったわけだ。
女性デーで声高に叫ばれるのは女性の自由なのだと思うのだけれど、どうも従来型ロールモデルから新型ロールモデルへの移行を叫んでいるだけで、結局は自由になっていないような気がする。その胡散臭さに気づき始めた女性はきっと「女に生まれたら損だ」と言い始めるのだろう。これまでは、女は家事と育児をやっていたら良かったが、これからはそれに加えて仕事もしていないと理想的女性とは認められない。
女性の自由というのはどれに生きてもいいという自由であって、"私が思う自由な生き方"にみんなを強要する自由ではないと思う。