はてなキーワード: 因幡国とは
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1655年
死没 延宝7年11月3日
藩 鳥取藩
妻 小紫
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平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士である[1][2][3][4][5][6]。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。
明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。
因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、自首したとされる[7]。
1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。