「因幡国」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 因幡国とは

2022-06-24

犯罪者物語にする意味わからん

平井権八

出典: フリー百科事典ウィキペディアWikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E6%A8%A9%E5%85%AB

1655年

死没 延宝7年11月3日

1679年12月5日(満23-24歳没)

別名 白井 権八 (しらい ごんぱち)

墓所 瀧泉寺 (比翼塚)

幕府 江戸幕府

主君 池田光仲

鳥取藩

小紫

テンプレートを表示

平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本武士である[1][2][3][4][5][6]。講談浄瑠璃歌舞伎映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる[1][2][3][4][5][6]。

明暦元年(グレゴリオ暦1655年)に生まれた、とされる[1]。「享年25」からの推測である[1]。父は平井正右衛門。

因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄太夫須藤太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した[1][2][3][4][5][6][7]。新吉原三浦屋の遊女小紫と昵懇となる[1][4][5][6]。やがて困窮し、辻斬り強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる[1][2][3][4][5][6]。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗東昌寺(現在廃寺)に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたこから自首したとされる[7]。

1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した[1]。享年25(満23-24歳没)[1]。小紫刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる[7]。

これおかしいだろ。130人の未来を奪っておいて英雄気取りか。

2017-11-18

anond:20171118163314

同じ「県」だからって、一枚岩なわけはないだろう

鳥取の人と米子の人は大抵同じ政策を支持するが、松江の人はいつも反対するとか

そんな単純なものだとは思えない

鳥取県なんて、因幡国伯耆国を大した理由もなく一つの「県」の管轄にしただけのものなのに

そんな無意味な枠組みにいつまでも拘る必要がどこにあるのか

合区がどうしても嫌なら、2つの県を1つにすればいい

市町村合併にあれだけ躍起になったんだから、県の「合併」をやらない理由もないだろう

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん