SNSやTwitterの普及で、様々なバックグラウンドの人と出会う機会が増えた。しかし、その関係が長続きするのはごく一部で、それも自分と同等の種別の人だということに気づき始めた。
よく考えればそれは当然のことなのかもしれない。でもやはり腑に落ちない点もあるのでここに書いてみた。
交流を続けていくとある程度の知的レベルでのグループ化というのが必ず起きて、極端にそれが離れている場合は次第にコミュニケーションが成り立たなくなっていく。あるいはコミュニケーションに弊害が出てきて、それを続けるのが辛くなっていく。結果、関係は解消されていく。
出会った当初は新鮮であったけれども、それから関係を熟すためにはやはり継続的にコミュニケーションに耐えうる「内容」が必要だと思う。Twitterで趣味がガッチリ合った人がいたのだが、その人のツイートはその趣味のごく狭い分野のみ(あとは挨拶とか「ご飯」とかばかり)で、読んでいて飽きてきてしまった。しまいにはあまりの話の幅の狭さに、よく分からないが怒りみたいなものも感じていた(もっとまともなツイートしろよ、的な)。
この関係を維持する方法がひとつあって、それは自分が相手のレベルに徹底的に合わせることである。ただ、これをやり続けるのは相当に疲れる。趣味の範囲内での交流でなぜ自分がこんなにも苦しい思いをせねばならないかと振り返ってしまい、苦悩に陥ること必至である。
結局のところ、社会の多くの場所でそうであるように、同じ階層の人は同じ場所に集まり、異なる階層の人とは必要のない限りコミュニケーションはとることがないということに気づいた。社会を効率的に回していくためにはこのことは必要なのかもしれないが、趣味などの余暇の時間でさえもこの考えに囚われることになってしまうというのはなんとも寂しいことではあるなと思った。
http://anond.hatelabo.jp/20110731161324 俺は物心ついてからどの階層にも属した事のない非コミュだ。 要性から組織に属することを要求されてもなんとかいるというだけで、常に他人との乖離感...