はてなキーワード: 自動車事故とは
前もって書くと、僕はたばこは吸わない。吸ったこともない。
だけど、路上喫煙があぶないとかなんとかいうのみるとそりゃ言い過ぎだろと思う。それ以前に外国なんか行くと現地民がプカプカ吸ってて、火消さずにポイポイ捨ててる。日本から見るとぎょっとするが、外国から見ると日本の方がぎょっとすることがある。歩きたばこくらいで何をビビることがある。
アメリカあたりじゃ法律で路上喫煙禁止してるところもあるらしいじゃん、あはは、アメリカ人って時々頭おかしくなるよねって普通に言ってる。僕もアハハって笑うけど、よく考えたら日本でも事情は大して変わらなかった。日本人も頭おかしいんだろう。
喫煙する人も随分おとなしくなってきたから(たぶん世界的に)、それは僕のような非喫煙者には喜ばしい。だけど、それ以上のことを迫ってどうするというのだろうか。
日本みたいに環境に配慮した自動車なんて、世界を見たらまだまだ普及してない。そうするとどうなるか。車の排ガスがいかにすごくて体に悪いか、日本じゃ分からないが、日本の外に出ると本当に実感する。これに比べたらたばこの煙くらい、なんってことない。
嫌煙論者はたばこの煙にはやたら敏感な割に、車には沈黙する。たばこの煙がそんなに嫌なら車の排ガスも嫌というのが、どう考えても筋が通っている。路上喫煙が危ないなんてのは言い掛かりで、それをいうなら自動車事故の方が余程危ない。車の排ガスに辛抱できるなら、たばこの煙も多少は辛抱なさい、それが平和共存の第一歩じゃないか。
出産後にホルモンバランスが狂って身近な人に迷惑をかけるほどになる確率って、結婚後に相手が事故又は病気になる確率と比べてどうなんだろう。なんか自動車事故の確率を無視して狂牛病の心配をするようなレベルの話に見えるのだが。(狂牛病に喩えるのは数値的には大袈裟だとしても、自動車事故よりケタ違いに低いリスクなのに問題視されやすいリスクの典型例として言ってみた。)
あと今具体的に
これが不安要素だってことだよね。どんなレベルなのか分からないけど、原因が分かっているなら(生理周期と関連しているなら)治療に行くことを検討してはどうか。直るもの直さずに苦労し続けるのは不毛だと思うが。
自動車事故を起こして、もう何だか最悪な2008年が始まりました。
自分は、100%加害者の立場。
でも、いろんな方に「大変だね」「頑張ってね」とか優しい言葉をかけてもらう。
後部座席に乗せていた方が一番怪我が重くまだ入院しているんだけど、入院の手伝いに行っていた。
入院も1ヶ月経った先日、相手のお母さんが自分の態度に反省が見られないと、激怒。
民事も辞さない、って。
自分としては、いつも被害者の家族にも気を使ってもらっていたから、無理にでも元気な顔していたのが逆効果だった様子。
けっこう自分が落ち込んでいる時に無理して、相手に誠意を見せる為にもと言うことで職場の上司から行きなさいと言われた。
言われたから行くと言うのも無責任に聴こえるけど、どうするか考えられる状態じゃないぐらい落ち込んでいた。
今考えれば、いくら被害者の家族が寛大な態度でも加害者に毎週会っていれば、いろいろ思うとこもでてくるはずだと。
後悔いろいろ後に絶たず。
被害者、被害者のご家族、自分の家族や職場の仲間、上司、その上の上司と迷惑かけまくり。
本当に申し訳ありませんでした。
事故を起こした人の立場に自分が立つことになって、学んだことは多い。
こうした事故で自分がこれからの人生を本当に「生きていけるか」不安になる。
事故に被害に遭われた方が、これを読めば「ザマーミロ」と思う人もいるだろう。
加害者になることは、罪と罰を背負うし、相手に傷つけたことを自覚すればする程、自分自身の心にできる「傷」は深くなる。
それでも人生は続く以上、命を折ってはいけないと思う。
負けてはいけない、んじゃなくて命を折ってはいけない。
事故は誰にでも起こる可能性がある以上、起きてしまったことに原因を求めないで(求めてしまうけど)、自分がこれから引き受けなければならない責任をきちんとこなして、生き延びないといけない。
世間の目、避難や否定、罵声を浴びたとしても、自分自身がその事故の責任の上に立つことを自覚することができるなら、その先の自分の人生を描いてもいいと思う。
できるかなぁ(汗
あいかわらず、この国の死刑制度に対する存置世論は強いようで、、、
痛いニュース(ノ∀`)【光市母子惨殺】 元少年「生きたい」「検察、僕をなめないでいただきたい」…弁護団、涙で「こんなに胸を張って弁護できたことはない」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1033297.html
ブログ主の編集方針が偏ってるって事情を差し引いても「吊るせ吊るせの大合唱」状態。あまりに人の命の重さに対する感覚が軽すぎるんじゃなかろうか?
気に食わないやつが殺されたらスッキリするっていう人権感覚が蔓延したら「正義のための人殺しは容認される」っていうことにならないかと心配だ。
さてそれにしても、僕にはむしろ悲しみにくれる被害者を救済する手段が「被告の死だけしかない」というこの国の現状こそ問題にすべきだと思える。
刑事裁判の目的が、被害者救済ではなく社会秩序の維持に偏っている(っていうか、それしかない)現状のもとで、被害者家族は裁判へ参加することもできず、真実から遠ざけられてきた。(少しは改善がみられるが)
悔しさを晴らしてくれるのは「厳しい量刑=死刑」のみ、それだけが唯一の望みという人生はあまりに虚しい。
一家の大黒柱を失った被害者に必要なのは、加害者への報復的判決よりも、むしろ明日を生きる「生活の糧」じゃないだろうか?
例えば、殺人事件の被害者遺族が、交通死亡事故の被害者遺族が受け取る死亡保険金程度(あるいは、それ以上)の経済的救済を受けられたとしたら、被害者遺族は被告の死刑をこれほど強く望むだろうか?
いまでも量刑の判断基準に「被害者(遺族)感情」が加わっているため、加害者に経済的な余裕があれば、賠償金と引き換えの減刑っていうのが現実に行われているけど、これって金持ちなら加害者になっても減刑されるっていう不公平な仕組みだと思う。
自動車事故のように、過失割合も加味して、被害者に落ち度がなければ100:0、怨恨であれば80:20、正当防衛であれば30:70といった具合に、刑事裁判と民事の救済をセットにして判定をし、はじき出された金額を国庫から支出、加害者に財産があれば、それを没収して国庫に充当させるのだ。こうすれば、加害者の経済状態に関わらずに被害者全員の救済が行われ、金持ちだけを特別に減刑させる手段を取り上げてしまえる。
また、社会全体にとっても、死刑にならないことを前提で取り調べが行われたほうが、検察の言いなりになって供述調書にサインをしたり、弁護士の小手先の法廷戦術で事実に反する供述調書を丸呑みしたりして「事実の究明=事件の教訓化」よりも「反省の態度=上辺の取りつくろい」を優先するようなケースが減るんじゃなかろうか。
大事なことは、事件の背景にある社会矛盾や人間心理の不条理を解明して教訓化し、社会全体が努力してこれを取り除くことであって、上辺だけの反省は真実の究明にとって邪魔なだけだ。
そして「だれがそのコストを負担するんだ!?」って反論には「もちろん税金で」と答えたい。っていうか、人命よりもコストを優先する発想って、先進国としてどうよ?
どうも最近の死刑論議・刑事司法論議を眺めていると、感情的な死刑存置派の背後に隠れて(時にはそれを煽って)被害者救済や犯罪者厚生のためのコスト負担を安上がりにしたいという国家権力の怠慢を感じる。
ミサイルの射程範囲内外の話とそれが可能な土地の話くらいはしてもいいんじゃないかなぁ?
プギャー(AAry
日本全土、射程範囲になったとしてもなんの問題もないぜ?
でさ、中国以外の弾道弾は通常弾頭かBC兵器だろ?これで何千人殺せると思うの?自動車事故の死亡者数と比べてみ?ばからしいから。
戦争が可能になって、どこかと戦争になって、俺らの生活で困る事ってこれぐらいだろ?
ぜったい交戦状態でも、俺らは通勤して仕事をして、いつもの生活を続けるぜ?
そりゃー、物が高くなったり、輸出入が困ったり、景気が悪くなってへたしら失業しちゃうかもしれないけど、これが現実の戦争でみんなが思い描いているような戦闘行為で死んじゃう・・・なんてないから安心しる。
不二家の問題は食品の衛生の問題と言うよりは、メディアリテラシーの問題の様相を呈してきた。つまり「これだけボロクソに叩かれるほどの問題なのか?」ということだ。
今回の賞味期限切れ材料の使用問題や、蛾の混入問題などは、そりゃあ善か悪かで言えば悪であろう。だが、食中毒すらほとんど出していない(過去食中毒が出たことがあるが、それは今回の問題と関係ない)、ましてや死者など全く出ていない現状、不二家をぶっ潰せの勢いで過剰報道を繰り返すマスメディアには強い危惧を覚える。この問題が報じられるとすれば、
という情報が付属されていないと、最低限の客観性すら担保されていないと私は思う。まあこれでも不充分だけど。
おれ「い、いや、でも車は来ていなかったですし……」
マスコミ「お前は道路交通法に違反している! お前のような奴がいるから自動車事故はなくならないのだ!」
おれ「いや、でも、他の人も渡ってますし……」
マスコミ「そんなのは金にならないから報道しない! 視聴者はお前が叩かれ、ボロボロになり、首をくくるところを楽しみに待っているんだ! 我々は視聴者が望むものを報道しているのだ!」
おれ「そ、そんなぁ……(高橋陽一風)」
ひとつの微罪(だかなんだかは私は詳しくないので判らんが)を見つけると、針の穴を広げるように一転突破で叩きまくり、しかも客観性がないというのはもはや報道ではなく、単なるプロパガンダに過ぎない。その昔「年金未納者叩き」というのがマスメディアで流行ったことがあるけれど、あの問題はその後どうなったのだろう? 政治家を何人も辞任に追い込み、国政を混乱させてまで報じるほどの問題だったのか。それほどの問題だったのならばなぜ今は報じられていないのか。不二家の問題はひとつの企業を潰し、大量の失業者を発生させかねないという社会的リスクを負ってまで報じるほどの問題なのか。
最も問題なのはこういう低レベルな報道の姿勢ではなく、報道のあり方を巡る送り手・受け手の意識の問題にあるだろう。受け手は「食品の衛生を巡る諸処の議論……」云々よりも、「不二家は悪魔の企業だ! 諸君、奴らを石持て追え!」の方が判りやすいし、何よりも面白い。送り手の中にはもっと突っ込んでこの問題を取り上げたい人もいるだろうが、「金にならない」という理由で次元の低い方法を選択せざるを得ない。このような負のスパイラルの中で、報道の客観性は失われ、報道局はプロパガンダ機関と化していく。
こういう時に大事なのがNHKのような特定のスポンサーを持たない企業であるのだけれど、どうもNHKの報道姿勢も民放とどっこいどっこいのようで、これは情けないとしか言いようがない。NHKのような機関が積極的に報道のレベルを上げていかないと、いつまで経っても負のスパイラルは終わらず、視聴者の自己満足が満たされるだけで問題の本質は何も変わらない。くだんの「秋山問題」でもそうだったけれど、いつになったらこんな地点を脱却できるのか、道のりは遥か遠いと言わざるを得ないだろう。私に出来ることはこうやって少数の読者に問題意識を投げかけるぐらい。無力を感じる。