はてなキーワード: 募金とは
額の問題ではないと思う。
たとえばコンビニに来るたびに募金箱からひとつかみの一円玉を持ち逃げする奴がいる。
額なんて数十円から数百円。だからといってそれを許してよいのかどうか。
http://anond.hatelabo.jp/20070417122528
募金しないのが標準状態なので理由はない。
募金する方に理由がある。
気が向いたとか、小銭がうざいとか、釣りがあったとか。
募金をしない人が、どういう理屈をつけて募金をしないのかを考える上で興味深い。
ちなみに私の理屈は「その200円使って別な人を助けているんで募金できません」です。従ってその200円使って別な人を助けてねーな、と思う場合は募金することに。
俺はそもそも増田の使い方として間違った使い方をしている気がしないでもない。
http://anond.hatelabo.jp/20070417083009
募金箱に入れるか、貯金箱に入れて現地で畑耕す資金にするかの差みたいにな。
募金をするしないの二元で考えるのがまず偏った感じだよなぁと、考え方ややり方は人それぞれ違って当たり前だと思うし。
http://anond.hatelabo.jp/20070417083216
暇な人が暇な人の暇つぶしに付き合えば互いに暇が潰れていい感じ。
http://anond.hatelabo.jp/20070417083823
だってボランティアなんだもの、与えるためにやってて自己満足以外に得ちゃってもそれはそれで。
自己満足すら得られなくなってきたなら止めて正解。
募金をつのっている人がジャイアンみたいに「金だせ」と言ってるならまだしも、ただ募金箱見てちょこっと考えてみた自称哲学ガキどものおっしゃってるだけのことでしょ。
なんの感情もわかないなあ。みんな無視しようよ、無関係者のひまつぶしにつきあうのは。
募金するかどうか教えない。
募金は本来、恵んで楽させる為でなくて、「自立支援」の為であるべき。募金したお金が、その国が経済発展したときに、利子付けて返ってくるならどうよ?安同情は為成らずって事はある。でも、わしはなんでもかんでも冷笑決め込む奴は好かん。募金の愛の形を変えてもいいんじゃない?ってことです。
http://anond.hatelabo.jp/20070417080355
届くかどうかは知らないけど、届くなら募金しないよりした方が良い事した気にはなれるんじゃね?
義務じゃないんだからしなきゃならん訳じゃないしどちらでも良いんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070417081027
強奪した金が人助けに使われるなら私利私欲に使われるよりはいいんじゃね?
どう使われるか分からんし強奪自体が良いとは思わないけど。
http://anond.hatelabo.jp/20070417081632
間接的な人殺しというのは多分極端な表現をしてるだけで、記事内では脅迫文句として使ってるわけではないと思うけどね。
http://anond.hatelabo.jp/20070417064104
「募金しないと間接的な人殺し」だの何だの屁理屈付けてゆすり取るような募金は、これから
と呼ぶのはいかが?
http://anond.hatelabo.jp/20070417064104
「あなたが募金しないことで間接的に人を殺している」などと恫喝して金をむしり取るような募金なぞ、
逆に言うなら「言いくるめて人の金を強奪している」事に他ならないと思うが如何。
なんでか募金=善、となってるのは小学校以来刷り込まれた思想のせいか。
そもそも募金が本当に困っている人たちのところに行き着くかなんて判らないじゃない。
無料で配給されるはずの国連の救援物資すら、当該国に行くと市場で売られていたりするという現実。
今まで募金した先で、使途明細なんて貰ったことある?
何だか良く判らないブラックボックスに金を入れて、良いことした気にはなれないよ。
「悪いことではない」っていう意見も有るかもしれないけど、だったら積極的にやるほうが偉いってほどのもんでも無いよね。
小銭で善意は届かない。
善意を届けるにもコストが掛かるんだ。
やりたい奴だけがやればいい、だが強制も説教もごめんだ。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070409/1176086019
上のメモの続き、ボーっと考えてたら何となくそう思ったってだけのメモ。
以下、また極論。
おやつを買う事によって満足感を得て、それが明日への活力へと繋がる。
もしも200円を募金していればその時は4人家族を一日だけ延命させられたかもしれない。
しかし200円を自分に使う事が、間接的に将来の何千何万人という人を何百何千日と延命させられるかもしれない。
思うに、募金をしない事は殺人等の積極的悪意ではなく、ただ単に積極的善意ではないというだけではないかなと。
善意を持たなければ悪意になるわけでもないし、もし善意が日常的になった時に人はそれを善意と呼ぶだろうか。
世の中の価値観が「出合った人は皆殺しが当たり前」な世の中なら怪我を負った人を見てみぬふりをした時にそれを善意と呼ぶ事も絶対ありえないわけではないであろうし、世の中の価値観が「出合った人に衣食住を与えるのが当たり前」な世の中なら怪我を負った人を見てみぬふりをした時にそれを悪意と呼ぶ事もまたありえないわけではないであろう。
募金しない事が今の世でどの程度に人を殺す事に繋がるかを考えると、どうにも「間接的な人殺し」の存在は曖昧である。
募金しなくたって人を助ける方法は他にもある、もしありとあらゆる方法を全て実行しなければいけないなら僕の内臓は全部なくなるだろう。
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070409/1176086019
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070416/1176724097
別に肯定でも否定でもなくまともに記事を読んですらいないのだけど、思った事のメモ。
たとえば、私がコンビニで200円のおやつを買おうとするという状況を想定する。
目の前に、募金箱がある。そこには「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と書かれてある。
それでも、その文字が目に入りながらも、私はおやつを買うとする。
このときに、私が「募金できない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「募金しない」だけである。
仮に、その200円がないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。
これをちょっと極論にして次のケースで考えるとどうだろう。
たとえば、私が家でくつろいでいるという状況を想定する。
この世のどこかで、募金活動が行われている。そこでは「アフガニスタンの人達は、4人家族で200円あれば1日暮らしていける」と日々訴えられている。
それでも、その訴えをテレビや路上で知りながらも、私は家でくつろぐとする。
このときに、私が「家でくつろぐ事を止められない」と言うのは端的に誤っている、ということである。ただ単に私は「家でくつろいでいた」だけである。
仮に、その家でくつろぐ間に消費された電気代やらを節約せず募金に協力しないために、アフガニスタンの家族がその1日を生き延びられず、死んだとしよう。すると、事実として「間接的ではあろうが、私は人殺しである」と言えよう。
もしも募金箱を見ながら募金をしない事が間接的に人を殺しているのなら、僕たちは日常生活を過ごすだけでも間接的に人を殺している事になる。
後者が極論過ぎる事は殆どの人から見れば明らかだが、募金しようと思えばできた事も事実ではある。
果たして僕らがどこまで募金をした場合に「間接的に人を殺した」とならなくなるのだろうか。
蛍光灯の輪を一本減らした時か、一日一食にした時か、家を売り払った時か、はたまた自分の全てを人に与え代わりに自分が死ぬ時か。
もし募金しない事が間接的に人を殺していたとしても、僕は心を痛める事も無くその募金箱を横目におやつを買います。
※追記
記事米欄見たら同じような事書いてる人が他にもいて重複な気がしてるけどまぁメモなのでいいや。
中央集権国家は目前に迫っている。
確信を持ったのは日韓ワールドカップの時だ。韓国がウリナラクオリティを見せつけ勝ち進むであろうことは予想していたが、ベスト4という予想を上回るすばらしいインチキをやってくれた。
私はこれはチャンスだという確信があった。すかさず関係各所に反則、誤審の検証ビデオを作るように支持した、そして、検証サイトがあればそのサイトに支持の書き込みを思いつく限り書き続けろと命令した。もちろん、2ちゃんねるは最優先事項だ。
効果は絶大だった、マスコミに踊らされ韓国マンセーだった空気は一気に反韓へと変わり、現在のようにストレスのはけ口を2ちゃんねるやブログに求める日本人を大量に生産することに成功した。同時に、マスコミの報道の信憑性も地に落とすことができた。
これが何を意味するか。反乱分子に行動を起こさせないことができるようになったのだ。私の策略により、我々日本政府がどれだけ富を搾取し、独占する法案を通したとしても国民は2ちゃんねる、ブログ、各種掲示板に不満を書くだけで実力行使に出なくなった。これが政府にとってどれだけメリットがあるかは、今の国会中継の稚拙なやり取りを見ていただければわかるだろう。馴れ合いで質問と答弁を繰り返しても暗殺も放火も暴動も起きない、政治関係者のパラダイスができたのだ。
今の私たちは何をやっても許される。「なんとか還元水」で税金を使っても我々は誰からも被害をこうむらない。この税金の無駄遣いに講義するためにナイフで刺殺する計画を立てる暇があったら、2ちゃんねるに「氏ね」と書くだろう。まったく良い時代になったものだ。掲示板で誹謗中傷されようが、見なければ良いのだから我々は一切困らない。むしろそこで暴力的な感情が収まってくれるのならいくらでもバカにしてくれといった感じだ。届きもしない批判をネット上でして何の意味があるのだろうか。笑いが止まらない。
そういえば、最近は「救う会」がすごいらしい。会計に我々の息のかかった人間を送り込んでおいたのだが、想像以上の募金がきているそうだ。被害者の両親が偉そうにテレビで講釈たれているのを見るとさっさとくたばれと思うのだが、政権の支持率を維持するためには長生きをしてもらわねばならない。何しろ拉致問題は北朝鮮の将軍様と日本政府がタッグを組んだ壮大な茶番劇なのだから。
日本政府と将軍様の間では我々が「ひがいしゃをかえせー」と言えば将軍様は「いやだー」と言い、将軍様が死ぬまで一生平行線を辿るという密約がかわされている。そうすれば絶大な資金力を持つ「救う会」はずっと維持され、毎年莫大な額の献金が日本政府に転がり込んでくるのだ。ジョンイルのアホにはそのうちの一部をくれてやれば良い。救うための金が救う気のない将軍様への献金だったと気づいたら、「救う会」の面々はどんな顔をするだろうか。救われる日を信じ、会を維持するためになけなしの金をはたき、自民党に投票し、たとえ逆風が吹いても自民党を支持すると答える。善意というのはまことに扇動しやすいものだ。
あと5年もすれば日本国民総無力化と政府主導の中央集権国家はほぼ完成するだろう。そうすれば、今の日本の国力から考えれば、少なくとも我々が寿命でくたばるまでは酒池肉林の日々を送り続けることができる。そのために、我々は全力で国民の感情をネットに押し込める作業に注力せねばなるまい。
「無能しかいない」と嘲笑されている日本政府の関係者がどれだけしたたかな存在だったか、無能な国民たちはもうすぐ思い知ることになるだろう。気づいた時にはもう遅いのだ。
そろそろチョコレートが売れる季節だ。バレンタインデーには女子の皆さんが費用を出し合って義理チョコレートを男子の皆さんに配布する、という風習のある職場は多いと思う。私のかつての職場は男子が圧倒的に多かったため、バレンタインデーのチョコレート購入費は膨大で、女子の経済的負担は過大であった。しかしホワイトデーにはなぜか男子が個々に女子全員へ過分なプレゼントを贈る傾向があり、そっちも経済的負担がたまらんかったであろう。
以上、枕。かつて私には職場的バレンタイン風習についていくつかの案があった。過去形。
第1案「義理チョコ廃止」。
もらう側の男子の皆さんだけでなく、こんな風習なくなってほしいと愚痴をこぼしていたはずの女子の皆さんからも「ずっとやってきたし」「楽しみにしてくれる人もいるし」「職場のうるおいとして必要」と反対が出て実現せず。意外に根が深い。
第2案「チョコあげたつもり、ホワイトデーのお返ししたつもり、で阪神淡路大震災被災者向けに募金」。
募金したのにやっぱりチョコも配った。なんでやねん。でも幹事が神戸のメーカーのチョコレートを買ってきてグッジョブだった。
第3案「2月14日と3月14日は男女対抗おいしいお菓子プレゼンテーション大会」は提案する前に OL を引退してしまった。これは、2月14日と3月14日に、みんなでお金を出し合っておいしいお菓子を食べて一服しましょう、が趣旨で、それだけじゃ面白くないので男女がお菓子選びのセンスを競う対抗戦にしましょう、というイベントである。
2月14日、先攻女子。賛同者から募った出資((好みや健康の問題があるので、出資の際、甘いものと辛いもののどちらかを選べるといいと思う。両方食べたい人は2口出資))をもとに、女子の意見で選んだおいしいお菓子が購入され、午後3時をもって配布される。皆でしばし仕事の手を休めて賞味し、味やボリューム、仕事の合間に食べやすいかなどを点数評価して投票。3月14日は後攻男子。男子の意見で選ばれたおいしいお菓子を皆で食べ、また投票。投票結果は後日集計して貼り出し、勝ったの負けたのとわいわいやる。予算が余ったら翌年用に積み立て、また両軍の買い出し係をねぎらうのに使う。
お固い上司がお菓子を食べる姿に親しみを覚えたり、酒豪のあの人が意外に甘党でもあったり、お菓子という他愛のない共通の話題のおかげで普段接点のない人と気軽に話せたりすると思う。まあこんなことを思いつくぐらいのんびりした職場だったということです。聖バレンチノも、職場で茶飲み話をするダシにされるぐらいは許してくれるだろうか。
SMクラブでは、ローソクを垂らしたり鞭を振るったりするほうがサービスを提供する側。
クラブでは、サディストとマゾヒストとは一種の演劇的な時空間を共有するけれど、
M嬢に鞭を振るう趣味の男性も、何年かすると相手にサービスを提供し続けることに疲れてしまって、
いつのまにか、縛られたり、ローソクを垂らされたりする側に回ることが多いのだという。
クラブの「女王様」というのも想像以上にハードな仕事。ただ相手を痛がらせるんじゃなくて、
相手が罰を受ける理由とか、相手が満足できるような主従関係とか、お互いの関係という物語を
常に創造し続けなくてはならず、頭の回転がよくないと続かない仕事なのだという。
高級官僚とか、弁護士や医師といった実世界では「鞭を振るう」仕事をしているように見える人達には、
こうしたクラブで鞭打たれる側に回ることが多いのだそうだ。
こんな人達は、たぶん実世界では誰かに「サービスする」ことに情熱を燃やしつづけていて、
その疲れを誰かにサービスをしてもらうことで解消したくて、わざわざお金を払って痛い思いをする。
年度末になって、1年の厄落としにSMクラブに出入りする高級官僚の数なんかを統計とってみると、
何か面白い傾向が見えるかもしれない。
SMクラブの門をくぐる官僚の数が減ってきているなら、日本は相当終わっているかも。
クラブの門を叩く必要がなくなった人というのは、たぶん実世界で「鞭を振るう」気力が萎えてしまって、
もはや発散しなくてはいけない「何か」すら無くなっているのだろうから。
Meine Sache 〜マイネ・ザッヘ〜: ボノは偽善者か?
なんかこの前の「死ね死ね詐欺」と論調が似てる気がした。まあそれはさておき。
この記事見てもボノの行動のどこが偽善にあたるのかサッパリ分からん。
慈善活動とビジネスを同列で語ろうとするから意味不明になるんだろうな。
ボノが慈善活動してるのは事実。
別に脱税したわけでもないし、彼のビジネスのありかた次第でその事実が変わることはないだろ。
じゃあ何か?ボノが版権をオランダに移すと貧困国の人がさらに死ぬんか?そのままアイルランドで税金払い続ければもっと多くの命が助かるんか?
「決して裕福とは言えないアイルランド政府に圧力をかけ、アフリカへの政府支援額を二倍に増額」させたのは、他ならぬボノなんだろ?
ボノのおかげでアフリカへの支援額が増えたってことじゃないか。これのどこが偽善なんだ?
ボノの慈善活動の裏で巨額の富を得ているとでも?
この調子だと、家計を上手にやりくりしている主婦や高金利の海外銀行に口座作ってる人が募金しても偽善と言われそうだな。
あと「製薬会社のパテントを糾弾する一方で、自分のパテント料はしたたかにガードしようとするボノ」ってことは、ボノは何か特許を取得しててその使用料をもらっていると断定しているけど、そうなん?