はてなキーワード: ダライ・ラマとは
パリ名誉市民に輝くダライ・ラマ猊下、身辺に慌ただしさが滲む。「後継者は私の存命中にあるかも、外国人かもしれない。女性の可能性も」
ダライ・ラマ十四世の後継は、チベット仏教では形式的にパンチェン・ラマが指名する。
実際には法王の崩御から四十九日以後に輪廻転生があるわけだから、霊性に優れた赤ちゃんを、生前の法王の発言などのヒントに基づき、ブレーンらがチベット地区(現在のチベット自治区に限らず四川、雲南、青海省など、伝統的なチベット人居住区)をくまなく探し求めて、何人かを選抜して或る場所に集め、四歳か五歳に成長してからの霊性、知性をみて最終的に選び出す。
生前、「湖畔のほとり、山の緑ふかい場所」とかのヒントの集積による。
しかし、チベットは1951年に中国共産党に侵略され、夥しい僧侶が殺され、チベット寺院の多くが破壊され、先代パンチェン・ラマは北京に幽閉されていた。
1995年にパンチェン・ラマ後継をダライ・ラマ法王が選ぶと、その指名されたニマ少年を両親ごと中国は突如拉致し、どこの馬の骨だか分からない少年を洗脳して「パンチェン・ラマ」をいま名乗らせている。
行方不明の霊童=ニマ少年は、いま生存していれば20歳になる。
中国が“指名”した「偽パンチェン」は昨今、中国全土を行脚し、「私は共産党の指導の下で、仏教を説く」と講演して歩くため信者の中に失望が生まれている。
チベット仏教の輪廻の法則では、この「偽パンチェン」が次のダライ・ラマ十五世を選ぶことになる。
そうなれば中国共産党が指令、指示するがままの傀儡祭主が誕生することになる。
あまつさえ共産党は07年に「次期後継のダライ・ラマは最後に共産党の承認が必要」という法律を勝手に制定し、人事権とごっちゃに後継指名権を把握したつもりでいる。
チベット亡命政府のなかには、ダライ・ラマ十四世の穏健主義に反発し、独立をもとめるチベット青年党の存在が確認されている。
だが現在のダライ・ラマ猊下がインドへ亡命してすでに半世紀が経ち、十四世の後継問題は、いよいよ深刻になってきた。
最近、法王は「次期後継者は外国人かも知れないし、チベット以外の場所で育った者かも知れず、いや女性であることもある」と発言した。
ヘラルドトリビューンに拠れば、「後継者選びは私の存命中に行われる可能性もある」と示唆したという(6月9日付けIHI、一面トップ)。
当面、インドへ亡命してきたカルマパ十七世が、ダライラマ法王のもとに仕えており、周囲に拠れば、カリスマ性がともなっているという。カルマパ十七世は北京政府が指名した経緯があり、99年に亡命した。いま24歳。
「かれはおそらく後継が正式に決まるまでの暫定期間、精神的指導者の役を演じるだろう」(NYタイムズ)。
最悪のケースでは「ダライ・ラマが二人、この世に現れることになる」。まるで南北朝の再来、中国のチベット支配のえげつなさはとどまるところを知らない。
anond:20080430081304の参考資料
ふだんは中国共産党のやりように激しく批判的な北京在住の知識人でも、チベットについては、中国が「解放」するまでは「奴隷」だったのに、感謝するどころか恩知らずで、中国に対して暴力的だと話す。「中国なしでどうやってチベットが国家として成立するというのか? 解放前は食べるものもなかったというのに」
チベットをめぐる認識ギャップ 西側はそう見るかと中国、怒る――フィナンシャル・タイムズ(フィナンシャル・タイムズ) - goo ニュース
東京の銀行に勤める上海出身男性(45)は89年の天安門事件をきっかけに出国した。一党支配を続ける共産党は好きではない。政治に興味はないし、リレーも最初は見るつもりはなかった。
だが、各地の抗議活動を見て気が変わった。「中国にも問題は多いが、聖火の妨害が起きることまで、一方的に中国を悪者扱いするのは我慢ならない」。西側メディアの不公平さを訴えるため、自らチベット問題のビラを作って沿道で配った。
相次ぐ妨害が、体制を嫌って外に出た中国人の心にさえ火を付け、わき起こる愛国心が皮肉にも、北京五輪と中国のイメージを変えていく。
asahi.com:聖火リレー 燃え広がる愛国心、冷める世界 - 社会
中国政府や中国人(除くチベット人)が反発し、ダライ・ラマ派との対話を再開する雰囲気づくりが難しくなってしまった。
中国政府の中にも対話派と強硬派がいると思うのだが、中国人民のナショナリズムが高まったことで対話派の行動の余地が狭められてしまった(下手に落としどころを作ろうとすれば、弱腰だと批判される)。
それにしても、上記の例のように中国人のナショナリズムに火をつけた(あるいは、火に油を注いだ)のは海外の抗議活動であるのに、中国国旗を掲げて繰り出した中国人を異様な存在のように見なすのはどんなもんだろうか。
ダライ・ラマっていい人だよね。
でも、俺たちはチベットの為に中国を叩いてやっているんだという人達は彼の次のような発言はスルーするんだよなあ。
「(北京五輪について)いかなる妨害もすべきではない」
あの人達はチベットと中国の関係なんてどうでもよくて、いい反中アイテムが手に入ったぐらいの感覚なんだろう。
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2008/04/39free_tibetfre_6fb5.html
この人に至っては1人の2ch的アホ発言を使って中国人留学生全体に敵意が向くように仕向けているよ。
ブクマコメントでもそういうノリだ。奨学金まで持ち出してバカじゃないの?
でも突っ込みいれると靖国映画上映を妨害している有村治子議員や稲田朋美議員みたいに
「そのような意図はない」と誤魔化すんだろうな。
どんな印象を持ったから悪意と感じた?
ユーモアのみを強調するのは事実を歪曲して伝えていると思った?
ダライ・ラマの頭に角生やすポーズが不快、もしくは悪印象だった?
こういう理由だったらちょっとセンシティブすぎやしないか・・・?
いくらなんでも過剰反応だろ。
・チベットは独立運動をしているわけじゃないよ!
・文句いったぐらいで投獄はおかしいよ。釈放お願い!
・中国政府の発表はうそ臭いよ。みんなちゃんと調査して!注目して!
・中国政府は僕が扇動しているっていうけど僕はそんなことしてないよ!!
わざわざこういう会見までしておいて、あれだけにこやかに話しをしようとしているのは、
最後の僕は扇動してないよ!を言うために、あんな笑顔を振りまいてるんだと思う。
自分には敵意はありませんよという意思表示以外のなにものでもない。
(もっとも生来お茶目な人なのかもしれんけど。)
いくらなんでも過剰反応だとおもうけどな。
いったいマスコミに何を期待してなにをさせたいんだか・・・。
やろうとしていることが非難している中国のやっていることとほぼ同様というのがなんともいただけない。
http://anond.hatelabo.jp/20080413012230
http://jp.youtube.com/watch?v=uxH4ZxtukrQ
私は以下の2点に特に悪意を感じました。
2 リポーターの発言
注意書きっていうのは怖いなと思った。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://jp.youtube.com/watch?v=uxH4ZxtukrQ
YouTube - TV朝日の悪意に満ち満ちたダライ・ラマ法王来日報道
ダライラマの肉声というのはなかなか聞けなくて、
さらにはジョークを言うなんていうのは結構衝撃で印象に残った。
で、このインタビューが悪意を持って編集されているの悪意というのはなんなんだろう。
この人たちはこのインタビュークリップのどこに悪意を感じたのだろう?
深刻な問題なのに笑っているダライラマに悪印象を持ったから?
それとも世間の人はこのインタビューをみたときにダライラマに悪印象を持つと思ったから?
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2975157
ずいぶんユーモアのあるひとなんだな。
「ダライ・ラマは親ナチ」 中国大使館員が米議会工作 - MSN産経ニュース
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ブクマではやたら中国が「と」扱いされてるが、にされてるが、記事を読めば
ワシントンの中国大使館で議会対策を担当する書記官が米議会スタッフに対し、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世がナチスと深いかかわりを持ち、ヒトラーの友人と親交があったという情報を添付した電子メールを送っていたことが2日、分かった。
ということで、とりあえずナチのカギ十字の由来が「卍」なんてことが根拠ではないようだ(全文が判明するまではわからないが)。
「ヒトラーの友人と親交があった」という部分で、これはハインリヒ・ハラーのことを言っているのだということがわかる。
「ハインリヒ・ハラーはヒトラーの友人、ハインリヒ・ハラーはダライ・ラマの教師、よってダライ・ラマは親ナチ」という印象操作を行おうとしたものだと思われる。
これでも根拠はかなり弱いものだろうが、ブクマで想像されているほどには無根拠というわけではない。
ハラーのほかにもダライ・ラマはBruno Beger - Wikipedia, the free encyclopediaやMiguel Serrano - Wikipedia, the free encyclopediaのような、ナチ&ネオナチとも交友関係を持っている。ついでに言うと麻原彰晃とも。(ピノチェトととも親交があったらしいが、はっきりしない)
もちろん、ダライ・ラマはナチ以外とも親交があるし、当然ナチ以外との親交の方が圧倒的に多いはず。
……まあ、こういう風にダライ・ラマの交友関係を暴露して、そのカリスマ性を削ごうとしたんだろうが、逆効果になったということだろう。
「中国は大使館レベルでもこれか」と呆れる気持ちはわかるが、ただ、言論の自由が保障された先進民主主義国家である日本でも、かつてオウム擁護をした知識人が叩かれたり、政治家と統一教会やら創価学会の関わりが取りざたされるようなネガティブ・キャンペーンが行われることは忘れてはいけない。
中国が「ダライ・ラマはナチスと深い関係がある」という話を聞いて、条件反射のように即座に「トンデモ」と決めつけるのは、中国に対する偏見があることが理由の一つだろう。それから、このようなブクマの仕方は、実はオカルトが好きな自身の内面を投影しているんじゃないだろうか。
http://anond.hatelabo.jp/20080322120813
当時の日支戦線において、支那はアメリカから武器弾薬等をビルマ経由で輸入
していましたが、このルートが日本軍によって絶たれた後、連合軍側はヒマラヤ
しかし、先代のダライ・ラマ13世はあくまでも「中立」を貫き、アメリカ大統領特使の
強硬な度重なる要求にも断じて応じませんでした。
http://alfalfa.livedoor.biz/archives/51261997.html
気にすんな。同じ仏教国じゃないか。見過ごせないよ」
・戦時中
「おい、中国が日本ブッ叩くための補給路確保に、お前らも協力しろ。」
「日本とも国交のある我々は、最後まで中立を貫く。協力はしない。」
・戦後
チベット→日本と国交があった為「敗戦国扱い」→中国のチベット介入→今に至る
恩を返すときが今来たな
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/news/1205769926/
かつて日本が大東亜戦争中、「同じ仏教国だから」という理由だけで羊毛を
送ってくれたのがチベットです。
チベットは一貫して「中立」を守り、日本との国交は変わらず続けられていました。
当時の日支戦線において、支那はアメリカから武器弾薬等をビルマ経由で輸入
していましたが、このルートが日本軍によって絶たれた後、連合軍側はヒマラヤ
しかし、先代のダライ・ラマ13世はあくまでも「中立」を貫き、アメリカ大統領特使の
強硬な度重なる要求にも断じて応じませんでした。
日本との国交を継続していたチベットは、なんと国際舞台で「敗戦国扱い」をされる
ようになってしまいました。
それが支那の共産党につけこまれ、皆さんもよくご存知の現在のチベットの状況に
つながっています。
少なくとも、第二次世界大戦までにチベットを独立国として承認していたのはモンゴルくらいしかないはず。当然、日本とチベットに国交はなかったし、「敗戦国扱い」もされてない。
チベットは国際的に承認されていたわけではないが「実質的に独立」という状態だった。
ただし、中国(国民政府)は「チベットは中国の一地域」だとして国民党員を置いていた。
チベット支配のきっかけは1949年7月にチベット政府が国民党員を追放したことで、人民共和国建国目前の共産党はこれを英米など帝国主義勢力が背景にあると見なして、「祖国解放」「祖国防衛」の決意を強くしたことにある。
人民解放軍のチベット進駐が1951年と、朝鮮戦争と同時期に行われたのは、この両方を帝国主義勢力の中国侵略からの防衛であると中国が位置付けていたからだ。
第二次世界大戦でチベットが「敗戦国扱い」されたことが、現在のチベットの状況につながっている、というのは二重の意味で間違いといえる。
「敗戦国扱い」につけこまれるというなら、国民政府の方が早くチベットを「解放」していただろう。
こちらはソースというか参考文献を挙げておく。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080318-00000940-san-int
一方で「ダライが独立の主張を放棄し、チベット、台湾が中国の不可分の領土であると承認すれば、話し合いの門戸はいつでも開いている」
ダライ・ラマは独立主張を放棄したせいで亡命チベット人の若い世代からは突き上げを食らってるくらいなんだけどな。
ダライ・ラマが中国と若手チベット人の板ばさみになってる形なんだが、まさか中国はそれを知らないのかな?
このまま、ダライ・ラマの影響力が衰えたり、死んだりすれば(彼ももう高齢だし、転生の問題は火種になるだろうし)、中国政府は真のチベット独立派や過激派と直接対峙することになって、事態は悪化すると思うんだが。
チベット政府から大量の羊毛が送られて来ました。その理由はただ、
「同じ仏教国が苦しい思いをしているから」
でした。
国交は変わらず続けられていました。当時の日中戦線において、
中国はアメリカから武器弾薬等をビルマ経由で輸入していましたが、た
このルートが日本軍によって絶たれた後、連合軍側はヒマラヤ越えの
チベット・ルートを開こうとしました。しかし、先代のダライ・ラマ13世は
あくまでも中立を貫き、アメリカ大統領特使の強硬な
要求にも断じて応じませんでした。
悲劇をもたらす結果となりました。
「敗戦国扱い」をされるようになってしまいました。