はてなキーワード: アプリオリとは
そんなことないよ。自分が悪くたって、社会の方を変えるという選択肢は有り得る。倫理的に正当化されないかもしれないけれど。
最初の問い (「だれのせい?」) と次の問い (「どうする?]) の間をつないでるのは論理じゃない。現実に、社会の失敗を個人が助け合って救うこともあれば、個人の責任による失敗を社会が救うこともある。救われること、救うことが最終目的ならば、誰の責任かはあまり重要ではなくなる (せいぜい、救わなければならなくなった事態の再発を防ぐための教訓になるくらい)。
それ以上に誰の責任かが気になるのは、「この事態を招いた者が何とかするべきだ」という思い込みのせいだろう。でもそれは社会的コストの多寡を勘案して作られる便宜的なルールであって、アプリオリに与えられているものじゃない。
なんかねえ。自称現場とか自称中立とか、要するに自分たちの主張や思想が常に絶対に
アプリオリに正しいというところが出発点なんだよね。
それが「自称」であると断定してるあなたはどこに立っているんですかというね。
出発点がそこだから、自分たちの主張に対する「現場の意見」や「党派性に偏らない立場」が
憎くてしょうがない。同じレイヤーでの言説ではなかなか反論しづらいからね。
特にネット弁慶で口先だけ、しかも自分が世界の中心で周囲を全て党派性で色分けしないと
世界を認識できない、という末期症状のgokiburiには、「現場」とか「是々非々」はガチで鬼門だよね。
でまあ、そういうカウンターに対してまともに反論できないので、お手軽にメタな(つまり「上」の)
立ち位置を確保しようとして「自称」なるタームが引っ張りだされるわけですよ。
「中立なんていってるけど、それは自称にすぎない。俺の方が正しい。それがあたまのいい
俺にはわかっている」という主張が込められてるわけ。お前中立/現場気取りで俺らよりも正しい
つもりらしいが、言っとくけど俺らの方が上なんだからな、みたいなね。
「自称~」に限らず、gokiburiがレッテル貼り(これは言うところの悪魔化と同じ手続きだね。気に
入らないものを無前提かつ無根拠に全否定するためのマジックワードとしてレッテルがある)が
大好きなのは、そういう「お手軽にメタな立ち位置をキープできる」という点にあるんだと思う。
つーか彼らにとって言論や議論というものがなんなのか、このことからだけでもよく分かるよ。
別段在日外国人、在留外国人を差別する意図も意志もない、ということを宣言した上で、下記を記載したい。-1
”在日韓国・朝鮮人が日本に移入してきたのは、「戦時下の日本政府による強制連行によるものと語られることが比較的多かったが、現在では、これは戦時下の朝鮮を含め、原則としてすべての日本人に適用された国家総動員法に基づいた合法的な徴用であるという認識が広まっている。朝鮮半島から日本本土に渡航してきた大半が自由意志によるものであり、徴用で日本本土に来た朝鮮人も、戦後そのほとんどが帰国していることが判明している。従って、現在、在日韓国・朝鮮人のうち、その来歴が徴用とする者は極めて少数と考えられている。これは朝鮮人移住者の各種データを検証をした『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(昭和30年7月 法務研究報告書第43集第3号)に詳しい。在日韓国・朝鮮人団体である在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる。尚、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに徴兵・徴用による渡航者の割合は減ることになる。なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で在日韓国人からは39人に留まっている。”
日本人を責めたい気持ちもわかるし、現状差別を行っている多くの人が厳然と存在することは事実で、それを否定するつもりはない。
ただし、当時の日韓併合について責めるのは当時の国際情勢からして国際的にも支持を得辛いだろうという点も指摘しておく。
”英ケンブリッジ大学のJ・クロフォード教授(国際法)は「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」とし、また韓国側が不法論の根拠の一つにしている強制性の問題についても「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦(1914年-1918年)以降のもので当時としては問題になるものではない」としている(2001年11月27日 産経新聞)”
従って、現状の差別については、広範な民族問題としてのアイヌの方や琉球の方、またブラジルからの来日在留者同様、「差別しない」という点において、韓国・朝鮮系の方も等しく、「差別されざるべき存在」として付き合う必要がある、ということ。
アプリオリかアポテステリオリなんていう概念の提示はこれらの他の民族との線引きを行うもので、容認し兼ねる(個人的には)
また、終戦時において韓国が朝鮮戦争その他を含めた経済要因による理由もあり国籍選択を拒否したことについて、日本人に責任を問うのは無理というものだ、と言う点も指摘しておく。(これを韓国政府の棄民政策だ、と言う点についてはそういう捉え方もあるだろうし、自分としてはその立場を取る)
一方で、戦前から戦後についての多くの日本人移民についても、同様に日本政府による「日本人の棄民政策」であり、戦後の北朝鮮への帰還事業は総連も積極的推進を図っていた点をもって、日本政府・日本人だけの責務とするのは問題があると考える。
創氏改名については、戦中も朝鮮名をもって将校になった(まぁそうはいっても部隊指揮官クラスですが)点などをもって、「全ての人間に強制した」ということはない点も明記しておく。
また、朝鮮戦争が日本の植民地支配が原因だ、という点に関しては、結果としてそういった「要因」があったことは「歴史の連続性」として有り得るだろうが、そんなことを言い始めたら中東戦争は全てイギリスが責務を負うべきだし、印パ紛争もそうだろう。
そんな話は「現状の解決になんら寄与しない」ことに加えて、「どこまで歴史の責任を負うべきか」という点もあり、プロパガンダとしての効力は無いわけではないだろうが、少なくとも現状の差別解消に有効に機能するとは思えない。
一見もっともらしく見える「正論」、上辺だけの空疎なきれいごと、
既存の権威から借り物丸出しの浅薄で一知半解な思想や主義主張・・・
などなどをしかつめらしく、物知り顔に、ナルシスティックに並べ立てて
ちょいとポーズをつければ、それで自分がさも頭がよく、人間として優れた、
特別な存在なのだと心底思い込めるというのがはてサの卓越した得意技な
わけだけども、時としてそれが容易に反転してしまう現象がまま見られるのだよね。
あるいは、その反転した理路こそがはてサな人たちの根源的な行動原理
なのかもしれないとすら思うんだけどさ。
つまり、「自分は優れた人間なのだから(はてサにとってのアプリオリな前提らしい)、
自分の言っていることは絶対に正しい真理であり、素晴らしく価値のあるものであり、
否定されることなど許されない。それを理解しないのは愚民であり愚民はしねばいいのに」
というようなね。
で。この理路を逆方向に言い換えただけですよね。 >カスが何を言っても(仮にそれが正しいとしても)
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2b12cad34eec4aec8766661a0885a1b7
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/2b12cad34eec4aec8766661a0885a1b7
この種の議論で一番暗い気持ちになるのは、まるで何事も禁止されるのが前提(アプリオリってやつか?)、我々の行動はとにかく制限されるのが当たり前でそこに疑いは無いってなかっこうの意見を見た時。
なんなんだ。
小学校のクラスなんかには一人くらいしかいなかった気持ち悪い校則遵守が全てのチクリ魔。道徳魔。
あれがなぜかネット上ではいっぱいいるように感じられて。わらわら集ってくる感じ。私が気にし過ぎなのかな?
あえてガキみたいな事を言おう。
人間もっと自由なはずじゃん!法律なんて所詮後付けのものじゃん!
なんだか下手なアナーキストみたいだな……そんなつもりじゃないんだが
もうちょっとうまく言いたい…
大して違わないんだけどねー。さて
後藤によれば、ある世代に生まれたことによってすべてが決まってしまうという考え方は「宿命論」であり、シニシズムやニヒリズムに通じる。
世代論そのものがもはや用済みなのだ、とかれはいう。その代わり後藤が持ち出すものは、古くて新しい文明の利器、科学である。統計と学術的分析をもちい、客観的かつ実証的に事実を導き出すこと。
『おまえが若者を語るな!』がいろいろとすごい。 - Something Orange http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080914/p1
ですが、色々勘違いしてるよね、という。そもそも「時代」というのはアプリオリに存在する客観対象ではなく『論じるという行為によって生み出されるもの』であることは、その本で批判されてるような人らの間では大前提なわけで、「時代なんて幻想です」という批判は彼等からすれば全く痛くないどころか冷笑の対象でしかないと思う。彼等が痛いのは「自分の切り口がもはや有効ではない現象の前で立ち止まっている自分たちに気づいた瞬間」くらいだよね。東浩紀が(あれほど賞めていた)村上隆批判をしていたときは結構痛々しくて気の毒だった。
まあ理系的発想で社会学ぽい言説をぶった切りしたい欲望は分からないでもないけど、それって一歩間違うと単に「物事の繋がりや文脈」が理解できない人=アスペルガー的症状にしか見えないんだよね。自閉症スペクトラムには入らない程度でアスペルガーな人って、ある種の超理系的人間=モヒカン族に多いと思うし、自分も幾分その気があるから分からないでも無いんだけど。また社会学が大概いかがわしいという言説も、もはや使い古されているわけで今更そんな話したくもないんだけど、もしそういう話を全然聞いたことがないなら「反社会学講座」(パオロ・マッツァリーノ、ちくま文庫)でも読むといいと思うよ。
本人だけど、君はそれでいいのか?それじゃ現実の法律改正の議論でまったく相手にされないよ。ネットではアプリオリに搾取があるとする君みたいなのがいるから、「搾取がある。著作権改正よりもそちらを優先すべき」といっておけば小倉弁護士みたいにみんなからちやほやされる。でも現実の法律改正に生かしたいなら、きちんと根拠を示すべき。「搾取がある。著作権改正よりもそちらを優先すべき」っていうのは一部のユーザーの側から主張されるのだから、立証責任はその一部のユーザーが負っている。だからきちんとその一部のユーザーが説明しないと相手にされない。ネットでほえてるだけで悦に入っていいの?