そんなことないよ。自分が悪くたって、社会の方を変えるという選択肢は有り得る。倫理的に正当化されないかもしれないけれど。
最初の問い (「だれのせい?」) と次の問い (「どうする?]) の間をつないでるのは論理じゃない。現実に、社会の失敗を個人が助け合って救うこともあれば、個人の責任による失敗を社会が救うこともある。救われること、救うことが最終目的ならば、誰の責任かはあまり重要ではなくなる (せいぜい、救わなければならなくなった事態の再発を防ぐための教訓になるくらい)。
それ以上に誰の責任かが気になるのは、「この事態を招いた者が何とかするべきだ」という思い込みのせいだろう。でもそれは社会的コストの多寡を勘案して作られる便宜的なルールであって、アプリオリに与えられているものじゃない。