はてなキーワード: 然別とは
引きこもニートのやろうと話してたら、「メシを自分で作ってんだから俺はマシ」とか言ってんの。意味わかんないよね。「俺は自分のぶんのメシをドアの前に置いといてもらうとかそんなクソ野郎とは違う、自分のぶんのメシは自分で作る、しかもレシピ本を見てちゃんと凝った料理も作ってる。だから俺は偉い。何もしてないニートとは違う、俺は労働をしてる」とか言うわけ。
おおおおおおおい、本気で言ってんのかぁああああああああ。
食材は親が買ってきてくれてて冷蔵庫に入ってる。それを取り出してレシピ本のとおりに調理して、それを食う。それが労働なのか。と聞いたら、「メシ食うのが労働なわけないだろ、アホか。メシ作るのが労働だよ。俺は自給自足してる」と。
そんな俺理論を語られて混乱したしそいつの自信満々な顔がヤになってきたから、その場では話を変えて、おおきく振りかぶってのアニメの声のしっくり感についてひたすら褒め称えるトークに移ったんだけど。三橋は再現不可能だと思ってたのにもうスゲーじゃんあのピッタリ感、動きの再現もスゲー。ビックル一気飲み!とか熱く共感しまくったあと、家に帰ってから考えた。
自給自足って、労働を考えるときに一番いいモデルケースだとか思ったんだよ。自分が働いて生産したぶんだけ、自分が消費できる。カネとか無いからスゲーシンプルでわかりやすい。ヤツの場合はどうかというと、ヤツがたどり着いた無人島が、「電気とガスは勝手に流れてくるから冷蔵庫とコンロは使えて、あと冷蔵庫の中には勝手に食材が補充される」という魔法の島だっと仮定したら、もしかしたらヤツがやっていることは確かに労働なんじゃなかろうか、と思った。
経済学とかよく知らないけど、労働ってのは、価値を増やす行動のことなんでしょ。労働って概念は、「頑張ったのを褒める主義」でなく、完全なまでの「成果主義」ってことだ。ヤシの実があって、それを超苦労して素手で割って1時間で1個ぶんのヤシの実ジュースを取り出すのと、専用器具を使って5分で2個ぶんのヤシの実ジュースを取り出してあとは寝てるのと、比べたらどう考えたってラクしてるヤツの方がたくさん生産してる。
ちょっと蛇足だったか。
昔って、寝てるだけで狼に襲われるとか、そういうのがリアルにあったわけじゃん。でもイマって、そんなこと考えなくてもふつうに寝てれば普通に生きて翌朝目を覚ますことができるわけじゃん。昔はさ、ムラみたいなとこで何人か交代で見張りをして、なんか異変があったら叫んでみんなを起こすみたいな仕事があったわけよね。でもイマは無い。そんなことしなくても、安全な夜っていうのは所与みたいなモンとして存在してる。
たしかに労働だったはずだけど、その労働の結果得られるモノが当たり前のモノになったとき、その労働は消え去る。
でも人間の感覚って相対的なモンで、感覚がシフトして、いままで「つらい労働」と「ふつうの行動」と「楽しい消費」みたいな関係が成り立ってたとこから「つらい労働」がなくなると、「ふつうの行動」が「労働」って感じになって、それに引きずられて「楽しい消費」が「消費」って感じになって、どんどん「楽しさ不感症」になっていく。ひどいのになると、非コミュだかなんだか知らないが、ヒトと酒を飲むのも労働とか言い出す。
狩りをしてたころなんて、狩りなんてのは命がけのやりたくもない仕事だろうさ。イマは文脈上、血沸き肉踊るスリル、みたいな、そういうのはちょっと考えない方向にしてちょ。そんなやりたくもない狩りが成功して、ムラにデカい肉塊を引きずりかえって、それを切り分けて調理するのって絶対「娯楽」だろう。ちょおワクワクするでしょ。苦労して倒したイノシシをいまから食う!そのために切り分けて串に刺してさあ焼くぞオラー!超たのしい。
それがどうだろう、狩りとかじゃなく、魔法の国で、毎朝起きたらムラの真ん中にイノシシの死んだのが転がってるとしたら。「あーあ、こいつ食うためにまた切り分けなきゃなんねーよ…。おい昨日俺がやったんだからお前やれよ。寝てるから終わったら呼んでね。」こんなやりとり、想像できないだろーか。
これとはまた別の話で、カネとかいう無機質なもんがあるから、いろいろ体感的な楽しさがなくなるってのもある気がする。
楽しいのはどっちだろ。
仕事って、なんか就職とかそういうシステムの中で働いてると、まるで「仕事」っていう一定量の定まったパイを取り合うような、そういう感覚になってる大馬鹿者が多すぎやしないか。仕事なんて、他人に何か貢献すれば、それが仕事だろう。他人に愉快を与えて、その対価として自分が愉快になる。前者が「労働」で、後者が「消費」だ。これに限界なんて無い。なるべく多くの他人になるべく質の良い愉快感を覚えてもらえるようなことをする、そうすれば、自分も他人からたくさん愉快な気分を味わわせてもらえるんじゃないだろうか。
社会は大きすぎて、他人が見えない。大馬鹿者は想像力が足りないから、こういうことがわからない。まずは尽くせ、楽しませろ。そしたら返ってくるだろう。コミュニケーションが不足して、なんとなく機嫌が悪くなって、人を悪く言って人に不愉快感を与えるヤツばかりが増えるなんて、ほんっとダサい。人をたくさん不愉快にさせるヤツにはたくさんの不愉快が降り注ぐだろう。それじゃ愉快じゃないだろう。
もし彼が家電のデザイナーとかだったら、こうはならなかったと思う。
彼の場合その「匿名であり衆愚である層」が顧客対象(少なくとも声のでかい顧客)なので、純粋に商売人として普通に「やっちゃまずい対応」をしてしまったと判断されても止むを得ないんじゃないかな。だから単純に「ネットの発言だから」ではなく「ネットの発言が届く相手が客だったから」がポイントで、匿名だから安全だからどーのというのはあまり関係ないように思える。
あ、俺や増田個人が「別にそれくらいいいじゃん」と思うのとは全然別の話ね。元の増田の台詞でいうなら「大人が多少いたところで、どうしようもない」というか。ま、顧客の理不尽度という意味ではその他の商売・その他の客層とも大差ない気もするよ。
おいおい、これは全然別物だろ。前者はやばい。後者はやるべき。
俺たちから見ればこんなのはゴミです!と表明するのと
俺たちが一番好きなのはこれだ!と表明するのは全然違う。
俺の住んでいるところには「あからさまな中国料理屋A(シェフがカタコトで味が日本人に全くこびていない)」と「なつかしい日本の中華料理B(味が日本人好み、シェフも日本人)」があるけど、どっちもにぎわっているし、どっちもおいしい。片方で見た客をもう一方で見たりもする。どっちが正しい現代の中華人民共和国料理かといったらAで、認定されるなら絶対Aだ。で、認定されたとしても両者のビジネスに全く問題はない。
認定制度に反対するのは、Bとしての自信がなさすぎるからでしょ。反対した時点で「俺の料理は底が浅いです」と言っているのと同じだ。
最初の山形氏のエントリーを読んで「ほーなるほどねー」と思ったし、それに対する池田氏の反論を読んでも「ほえー、なるほどねぇ」と思った私は、正直彼らの意見のうちどれがただしいのか、あるいはみんな実は正しいのか、はたまた実はみんな間違っているのか、というのは正直分かりません。
…でここでふと思ったのは「実名か匿名かって、実は意見の正当性を判断するのには役に立たないんじゃね?」という事。
無論池田氏が経済学者だというのは知っているので、経済学の先生が言うことだから正しいじゃろう、という判断の仕方は出来るんだけど、だとすると山形氏の意見に納得できるのは何故? とか、仮にこれが「某I氏のblog」なる所に書かれてたとすると俺は果たしてこっちを正しいと言い切れるか? とか思うわけですよ。
でまぁここまで判断に悩むのは、間違いなく俺の知識が足りないのが原因な訳で。逆に言えば知識さえ足りてれば、これがとあるI氏vsとあるY氏の論争でも(つまり匿名でも)どちらの意見が正しいのか判断できるだろうな、と。
要するに、小倉某が言うほど匿名か実名かなんてのは重要じゃない、という事かなと。無論、論者の同一性ってのは保持できないとまずいけど、それは極端な話2chのスレ上でトリップ使っても実現できるしなぁ。
ふーん。繰り返しになるけど元々の日記が「作為的に焦点を絞って、リンクを許諾制にしてる事が問題の始点で"も"ある」という理屈なんだから、全然別の話だってことは分かるよね。
出来れば前提を覆した反論だという事は明記してほしいなぁ。善意で解釈するひとが混乱するから。
無断リンク禁止という話において理屈がよろしくないのか、ひろみちゅの手法がリンク許諾制に話を限定しすぎて全体的な悪用を防ぐ話からすると理屈としてよろしくない、のか分かりにくくなるし。
それが書いてあれば「あえてリンクに限定している話だから」と確認作業抜きで言えるしね。
高木氏が警察に対して指摘してる事で、それについて「その理屈ばブッ飛んでる」って言ってるんだから、tinycafeの人の話とはとっくにほぼ無関係なのは今更言う事でもないと思うけど。
いいえ。それはあなたの論理が明確に間違っています。
まず「その理屈ば(原文ママ)ブッ飛んでる」ってのは、何度も言っているけど無断リンク禁止論争というこの文脈において、理由を提示できていないんじゃないの?。「それだけが問題の始点ではない」という無断リンク以外にも理由はあるよという指摘だけはあるけど。そもそもは「リンク許諾制"も"始点だ」という話だから。
リンク許諾制なんてのを掲示するから、リンクがあると関係者だと誤解する人が居る。無断リンク禁止なんて書かずに、リンクは悪質な業者でも勝手に貼る事が出来るので信頼するなと宣言してもいいぐらいだ。というひろみちゅ論理そのものの反論や否定にはなっていないよ。
あと、ひろみちゅは警察とか官公庁みたいな公的なホームページのリンク許諾制問題しか取り上げないというポリシーだから、個人が宣言している無断リンク禁止の宣言はスルーしている。その区別は、公人と個人は影響力が違うというものだから。逆の拡大解釈をして、個人ならば脆弱な宣言をしても良いということではないよ。ひろみちゅ以外の人間がそれをスルーしないで啓蒙すれば良い。
で、もう一度聞きますけど、ギャグだと思ってるものを引き合いに「反論をよろしく」とか言ってたんですか?
いままで出てきたように「煽りを使ってリテラシーのない人の注目を集めて、結果的に安全な行動指針という啓蒙を浸透させるひろみちゅのテクニック」を化かし合いとかギャグだと表現するのであれば、答えは「はい」ですよ。
その事自体に大した問題点はないですしね。(煽りは個人的に嫌いだという人も居るかもしれないけど。礼儀正しいかっちりとした文章だと話題になりにくいから、あえて煽る手法も認めたいと俺は思っている)
それにひろみちゅ日記への反論をよろしくと振ったのは、リンク許諾制が誤解をよぶという論理についてですし。手法が煽っていて礼儀正しくないことが、なにか問題がありますか?
ここで言う「人物像」が、該当する日記のその日付だけの人物像であれば当然ですよ。俺が引き合いに出してきた理論に対して反論するのであれば。一般的な言葉の「人物像」であれば、理解する必要は無いです。それは無理ですし。
まぁ理解していないで反論していたのであっても「ああ、その反論はこういう理由でひろみちゅがあえて煽っているだけだから」と指摘されるだけで済む話なので。
相手(この場合は警察)を化かして指摘してもなぁ。
してもなぁ?
総合的な意味でリテラシーを身につけるつもりが無いであろう公的なホームページから脆弱な記述を除去して、それを日記に書いて注目を集めて啓蒙するのが目的だから成功しているのでは。何か問題が有るのですか?
それとも単に「煽り手法=化かし合いをつかって指摘しても僕の好みのやりかたじゃないなぁ」ぐらいの感想文なのですか。それなら理解できますよ。