はてなキーワード: 三十路とは
前々からなんですが、「中井何某のブラックバラエティ」は見ていて腹が立ちます。
毎回必ず1人が槍玉に挙げられて、というより「いじめ」の対象にされているの、わかりませんか?
今日(5/6)の放送では、野球ゲームの様式で当たった的に載せられている人(当たるまで隠されている)がご褒美の餃子を食べられないという設定なのですが、30枚ある的のうち26枚が出川哲朗さん(他ゲスト4人は1枚ずつ)で、彼が番組内でブチ切れていました。数週間前には中島知子さんが成り行きで浅香光代さんのところに謝りに行く羽目になる(させられる)なんて放送もありましたし、また彼女は偽のアリバイを番組側に作られて(「タキシードセーラーでしたか?)完全否定しているのにその流れでいろいろやらされたりしています。石原良純さんも番組内の企画の旅行で故意に置き去りにされたりとか、(成り行きで)いろんな練り物の大使になったり(させられたり)とか被害を受けています。多分私が見ていない回でも、誰かしらが攻撃の対象になっているのでしょう。想像するに、なんだかんだ言ってスタッフと中井何某がツルんで「きょうはこいつをハメよう」と企んでいるとしか考えられません。
私は表記の通り三十路中盤ですが、この番組を見ていると中高生の頃に受けた記憶がリンクしてしまい、腹が立って腹が立ってしょうがなくなります。もう時刻が遅くて(23時過ぎ)直接電話できないのが増して立腹に拍車を掛けています。
そんな番組作りは止めてください。超人気者といわれる中井何某なので、彼見たさに番組を見ている未成年は多数いるはずなのは制作側もわかっていると思います。この番組あるいはこのような制作態度の番組から、またいじめが増長するのは視聴者センターの皆さんもわかるはず、というかわからなければ視聴者センターの意味がないです。とりあえず、来週あるいは次回の放送を見てみてください。この腹立ちが理解できるでしょう。なお、長寿番組とはいえその次に放送されている「何某のガキの??」も同類だと思います。あれは放送開始直後から見る気になりません。
以上、日テレ視聴者センター苦情受付フォーマット(https://www1.ntv.co.jp/staff/form.html)から送りつけた。
増田の皆さんはどう思いますか?「見なけりゃいい」というのは置いておいて。
追記
「見なけりゃいい」というTBが何件も立て続けに入ったので追記しますがね。
俺が見なけりゃ腹は立たない そりゃわかる。
でも、そういう考えだからこんな腐った世の中になったんじゃないの?
http://anond.hatelabo.jp/20070502161551
『「愛」という感情が性欲に先立つ』というより、性欲が愛の中に理想的なバランスで存在している男性はいるだろう。しかし、依存心が愛に先立っている女性が多いように、性欲が愛に先立つ男性も多いだろう。
さて、そういう良い男性が少数ながらいるとして、どうすればそういった男性に愛される事ができるのだろうか。
若くて美人で素直で無垢だと有利なのだが、それは三十路過ぎから目指す路線ではない。
現在人を遠ざけて孤独でいるのはむしろ好都合かもしれない。まず自分の中で自分が好きな性質を認識し、それを伸ばすよう努めてみる。そうしてまずは自分自身をより好きになり、自分に対する愛情を深める。自分を愛せない人は他人を愛することも出来ず、他人にも愛されないからだ。そうして自分ならではの魅力を育てる。
それと平行して、付き合う人間も選ぶようにする。(男女問わず)
よく知らない相手を信用するのは勇気ではなく無謀だ。自分がいいと思える性質を持っている人とだけ付き合い、そうじゃない人とは必要なら浅く付き合えばいい。
人を見る目に自身がないなら、なおさら努力して相手のことを理解しようとする必要がある。思い込みは脇に置き、本当に理解したいと思いながら注意して接すれば、相手の性質はだんだん分かってくる。
そのようにして良質な人間関係を構築していけば、そのうち丁度いい人にも会うだろう。
その時までには、今より依存心と愛のバランスをうまく取れるようになっているだろう。
個人的には、わざわざ穴に入れるより、ただ抱き合っているほうが心を一つにしやすい気がする。
ヲタク(特に同人で多数を占める、漫画・アニメ・ゲーム等のヲタク)は上手い下手かかわらず、ヲタイラストを描きます。最終的に描かなくなった人間は当然大量にいると思いますが、ヲタの道に入ってからどこかのタイミングで一度くらいはイラストを描くと思います。
何故描くのかは自分でもイマイチ判りませんが、しいて言うならばヲタ道の先人達がヲタイラストを描いていたから、というあたりでしょうか。そしてなんかイラストが描ける人間は重宝されたり尊敬されたりしてたような気がします。まぁ、面白い文章とか豊富な知識とかよりぱっと見でスゲーってなりますしね、上手いイラストとか見ると。
自分を振り返るに、どの辺りから人に見せるために絵を描き始めたかというと浪人時代のゲーセンノートが辺りが最初でした。僕は隠れヲタだったので、学校の友達に見せるって選択肢がなかった訳ですね。
今思えば、そのゲーセンノートは変に盛り上がってまして、普通は中高生の同人女性がSNK関連のキャライラストを描きなぐり、それに非ヲタの男子高校生が落描きしたり、チンコマンコ描いたりするのが基本です。しかしその店は、当然同人お姉さんがイラストを描くのは当たり前ですが、歳も中高生からそれこそ三十路手前(っぽい)お姉さんまでバリエーションが豊富で、描かれるイラストもそれに応じて色々でした。意外と鉄拳やソウルエッジ等のナムコゲーが善戦してたのが面白かった所でしょうか。さらに、ヲタク♂も負けてはいません。濃い絵からロリ絵・アメコミ(ちょうど時期がX-MENやMSHと被ってましたしね)まで色んなタッチの絵師がいて、変わったところでは切り絵師とかも居ましたねぇ。そんな人間が夜八時以降に集まってきて終電まで毎日ダラダラする訳です。ヲタでない人間はそんな時間まで残ってないから非常にマッタリとした空気が流れて良い感じでした。ノートもガリガリ描かれまくってて、ノートを描く順番待ちにゲームをするというヘンテコな人達もいました。忙しくて、三日ほど行かなかったら、それこそ数十ページ単位ですすんでて、流し読むのも大変だったり。また、他人のメッセージにツッコミが入って、それに応答したりしてるからまたえらいことに。ヲタ以外の人間は物凄く引いていたのでしょうねぇ…。
今もノートは健在なのか、ちょっと気になります。
「あやまちのないお泊り」ですが、今おもえばこのころは友達以上恋人未満、みたいな時期でした。
振られて(と、私はおもっていた)春から秋にかけては、美術館に彼のほうから頻繁に誘ってきて、よくわからないまま「どうにも彼女になるのが難しいなら、一番仲のいい女友達の座をねらうしか…?」とか諦めていたのです。でもある時、いっしょにいて「抱きつきたいなぁ」という衝動が抑えられず、一度だけふざけた振りをして彼にとびついたら、彼は少し考えたあと、「…。べつに○○さんがどうとかじゃなくて、他人にいきなり触られるのは慣れてなくてビックリするから、そういうときは一度声をかけてからさわってもらえる?」とかなんとか断られて…がーんがーーーーんががががーん…。恋人じゃないから手はつながない!って、自分でもその辺はけじめをつけようと考えていたけれど、一声かけて、はさすがにショックでした。
秋になり、やっぱり親しく友達でいるのもつらくなってきたころでした。「いっそ完全に振ってもらったほうが楽じゃわぃーー(T^T)」と、気がついたら喫茶店で
どっちか選んでくれ!と迫っていました。捨て身の作戦で迷惑千万ですが、なんとか「方向的にはYESの方角へ牛歩で」とのことでした。その返事をもらい、だいぶ心に余裕ができました。
そんななかでの「お泊り」です。
お友達として泊まるという感覚が理解できない。
…それってどういう意味? ひかえめとはいえYESの方角ということは、や、やはりあんな展開を想定して臨まなければいけないのか、といろいろ考え込みました(お泊りの予定をたててから、お泊りの夜まで数日あった)。ひとりで悶々としててもしょうがないし、お互いの思惑がすれ違うのが一番キツイとおもった末、「(恋人がいちゃこらするお泊りじゃなくて、SEXはしない前提の)友達のお泊り、っていうことでいいね?」とふたりで「しない」約束をしたのでした。おかげで当日は、取り越し苦労などしなくてすんで、ちょっとドキドキしながら静かな夜がすごせました。こういうのも悪くはないなー、心の余裕って素敵だね☆とおもいました。
…ま、そんなわけで厳密に「友達のお泊り」だったわけじゃないんですよね。でも二人の間では「まだ」友達のお泊り。私も彼氏も、人生で恋人いない期間がすんごく長かったので、そんな甘酸っぱい中学生みたいな空気を、すーはーしたよ。すーはーはー。
そういえば最近になって、「さわる前に一声かけて、っていわれてショックだった」と告白したら、「いやー、○○がそういう好意をもって触れてきたのはわかてたから、かえって自分がビクッ!とかしちゃうと、○○がショック受けるかな、とおもって(ビクッとしないために)"一声かけて"っていったんだ」と説明されたのだった。そっちかー、そういう理由かよー!なんだよ、もう。ショック受けて損した orz
まったりと待ちつつも、いろいろあった一年。友達として長く付き合った分、付き合い始めてから「こんなはずじゃ」っていうことは少なかったかな? とはいえ、付き合う前には知らなかった相手の一面を、いまでもいろいろ発見することがあります。もう待つのもなれたので、あと3年ぐらいは平気で待てそうな気がしますわ。もうすぐ三十路だけどな。
彼は、私のことを「鉄砲玉のように、どっかに飛んでいって忘れた頃に戻ってくる感じじゃないかと、ハラハラする」とかいいます。つか、無鉄砲? 風船みたい? 風まかせ?猪突猛進なのは、友達づきあいの一年で充分にわかってくれてるよね! ゆるせ。
なんかどきどきしてきた。
俺より16歳も若くてはじめは可愛い妹分だと思ってた。
でも、ちょっとどじっ子だけどがんばりやさんのあの子の好きな人になれればいいけど、
って思うようになったのはいつのことだろう。
ああ、三十路後半の男がこんな事を書くのはキモいって分かってる。
でも久しぶりなんだよな、このどきどき感。
もう少し自分が頼りがいがあって甲斐性がある人間だったら良かったのにと思う。
明日冗談めかして遊びに誘ってみよう、相手がいないって聞いたし、
なんか惨敗しそうな気がするけど、少しでいいから誘う勇気が欲しい。
目の前に彼氏がいて、その目が近い距離から私を見つめていて、その瞳を見つめ返して、自分の両手を彼氏の両頬にそっと添えてみたりなんかして、ちょっといいムードになってくるそんな瞬間、「あ、この人って私の『彼氏』なんだ」という当たり前な事実が脳裏をよぎってしまうことがある。
そんなの当たり前なんだけど、そう思った瞬間に、どこかで脳味噌が冷めちゃうと言うか、下手したら空虚感さえしてきて、すごく変な気分になる。
自分自身のことについて、つまり(特に)主観的に認識されている事柄について、あえて(客観性を持つ)言葉にしてみると、何か変な感じがする。むずがゆい。非モテ乙女に彼氏ができちゃったどうしよう的な問題じゃなくて、それはあくまで一例。
他にも、自分に関する事実としか言いようの無い言葉を思い出すたびに、上みたいな感じがする。自分の年齢をふと思い出して頭の中で「○歳、○歳」と連呼してみたりすると、胸にぽっかり空洞ができたような虚しさに襲われる。
いろいろ要因はあるんだろうけど、一番大きいのは、言葉は単に事実を示すだけじゃないってことなんだろうな。例えば「彼氏」。どことなく軽薄な響きとか、メディアによって典型的に作られたイメージとか、あとは私自身の経験や価値観や偏見なんかが、たかが「彼氏」なんていう短い言葉にぎゅうっと詰め込まれている(引きずっていると言った方がいいかも)。その詰め込まれた要素と、実態(私の「彼氏」という存在)が上手く一致しないとき、脳味噌が混乱して違和感を訴えて、上みたいな感じになるのかなあと思う。だったら違う言葉を当てはめればいい(恋人とか)と言われるかもしれないけど、単純に事実としてみたら、冒頭の「彼氏」氏は「彼氏」以外の何者でもないし、恋人ってのは言葉として使い勝手が良くないので、結局「彼氏」に落ち着いてしまうのだ。
年齢も同じだ。かつて「17歳」が騒がれたように、「30歳」が三十路として特別のニュアンスを持つように、年齢は単なる生存年数を表すわけではない。社会的属性やイメージやその他諸々が、ただの数字のくせに恐ろしい分量でくっついている。
本当に言葉とは、つまらない単語一つ取ってみても、辞書的意味では語り尽くせないものであるなあ。
さて、変な感じとか虚しさとかって、結局何なんだろ。一致しないことへの違和感、ぴったりの言葉が無いもどかしさ、言葉の方から私を規定してくるような圧力、それに対する抵抗感(あるいは諦め)、言葉が伴う理想的イメージとその言葉に該当するにもかかわらず理想的イメージを満たせない敗北感・虚脱感などなどがあるんでしょうかね。もっと詳しく分析しようと思ったけどめんどくさ。