はてなキーワード: まなびストレートとは
2次情報で腹一杯になる程度の飢餓感で、ナニが自称「アニオタ」だ。
そもそも「全部」とか「ギャルゲ」とか語彙に具体性が欠けまくってるうえに、「パクリは悪」とか得々として断罪するあたりレンジ叩きの厨房とレベルがいっしょ。せめてあんたの大好きな、先駆的なカメラワークの、古くから読み継がれてきた不朽の名作たる、その「ギャルゲ」とやらの名前ぐらいは出しなよ。厨房だって「ドクターマリオ」くらいは言うぜ。
あんた、自称アニメ評論家(表現論専門)のほうがお似合いだよ。
(ちなみにまなびストレート見たことありません)
簡単に言っちゃうと、「ufoテーブルが時代に適応できてなかった」の一言に尽きる。
かつて「住めば都のコスモス荘」や「ニニンがシノブ伝」で注目を集めたカリスマ制作会社だったufoが
「フタコイ」と「コヨーテ」の失敗を挽回すべく、今まさにカリスマとして称えられている京都アニメーションの大ヒット作
「涼宮ハルヒの憂鬱」を猛烈に意識し、参考にし、ufoの全力を持って作り上げたはずの「まなび」だったが
この「時代適応力」のなさですべてが空回りしたと言える。
この時代適応力のなさがufoに発現してしまったのは言うまでもなく、フタコイ1話放送時のインパクトと、
それ以降との差異による視聴者の落胆であり、同じくコヨーテ1話Bパートと、それ以降の視聴者の落胆によるものだ。
では「まなび」はどうであったか。
まず最初に、ロリオタ受けを狙ったつもりだったのに、ドン引きされたキャラクターデザインが1つ。
そして極め付けが、文化祭のメインイベントでライブをやってしまう空気の読めなさ。
ハルヒと同じ事をやった、でも痛々しいが、問題なのはufoが文化祭=ライブと言う発想しかなかった事。
ここが、近い時期に同じ文化祭ネタをやったコードギアスだと「巨大ピザ」なのである。
(「ハルヒ」自身が文化祭=ライブなのは原作がそうなんだから仕方ないとして)
細かい部分の脚本や構成の未熟さは突っ込んでも突っ込み切れないので省略するとして
一言で言っちゃえば「時代に適応できなくなったオッサンたち」が無理して作ったアニメなのである。
http://anond.hatelabo.jp/20070327130028
あんたにとって面白くなくても、他の人にとっては面白かった、ってことさ。
ちなみに署名って結構集まらない。
これ、経験談。
最近のブログとか見てて「まなびストレート」ってアニメを初めて知ったよ。
なんでみんな見てるの?前作が人気だったの?つか、自分はアニオタだと思ってたのに、みんなの話題についていけなくて…。
youtubeでまなびの個人作成PVを見たんだけど、えげつないくらい古典的ギャルゲだったね。カメラワークが全部ギャルゲじゃないか。
とりあえず言いたいのは、そんな話題になるようなアニメか?
http://blog-search.yahoo.co.jp/search?p=%A4%DE%A4%CA%A4%D3%A5%B9%A5%C8%A5%EC%A1%BC%A5%C8&cop=
こうしてブログ感想を見る限り、「まなびストレートは」概ね好評を得ているようだ。
にも関わらずどうして「アニオタの大部分に失笑を買ったまま終わる事になってしまった」という唐突な言及が生まれてしまうのだろうか?
それは仕方が無い評価だし、その評価が間違っているというわけではない。
だが、そういうスローペースの、のんびりしたアニメが楽しいと感じ、物語の展開と結末よりも過程のディテールを楽しみたいと思うアニメファンもいる。
なんて当たり前の事は今更こんな長文で言うまでもない事だろうけど。何を言いたいの?
もしかして「まなびストレートを擁護するファンはバカだ。なんて言う奴はバカ」みたいな他人の評価を気にしすぎる人の優越感ゲームなのかな。
(ちなみに俺は、絵が高校生に見えない独特なキャラ作画で違和感感じるなぁという以外は、普通の出来の批判も賞賛もする必要のない数あるアニメの一つだと感じた)
別に舞台がどこだろうと共感できるものは共感できるし、無理なものは無理。そもそも涼宮ハルヒの憂鬱は共感できたからウケたわけじゃないし。
何かと比べないと話が出来ないのであれば、かみちゅのほうが比較対象として余程マシ。
まなびストレート!がいまいちだったのは、後半、キャラクターの個性をまったく生かせなかったのと、説明不足で山場が山場に見えず、最後まで平坦にすーっと素通りしてしまったから。共感を得ることで支持を受けたいのだったら、もっと丁寧に書くべきだった。
まなびストレートは絵がダメ。真性オタク専用の絵になってるから、ハルヒが取り入れることに成功した「ぬるオタ」を視野にいれることができなかった。また、ハルヒにおいてはyoutubeでのEDテーマがあったように、ネットで話題騒然になるような要素がまなびストレートにはない。普通にインターネットやってるだけではほとんど知ることのない作品、まなびストレート。
このアニメが明らかに「涼宮ハルヒの憂鬱」の大ヒットを意識して作られたのはもう言うまでもないが、
結果としてアニオタの大部分に失笑を買ったまま終わる事になってしまった。これはなぜだろうか?
安定した作画、動きまくりの動画、見るものをひきつける演出。どれもがクオリティ高かったはずだ。
ではなぜ「まなびストレート」は失敗したのか。
アニメオタクの、「理想の学生生活像」へのかきむしる手法として「生徒会」を選んでしまった事が1つ。
生徒会なんてのは学年に数人しか居ない存在なので共感を得られるはずがない。
まず早々にここで失敗してしまった。
対して「ハルヒ」はそれが帰宅部でもない限りは誰もが経験する、部活動だった。しかも文化系。
その「生徒会」も、生徒の溜まり場として機能していた時は良かったが、文化祭復活に向けての活動をし始めた途端、
辛うじて貼り付けていたメッキが見る見るうちに剥がれ落ちていく。
最終回。みかんが「変わる事」を第一にいきなりアメリカ行きを決定。そして早々に「止めようかな」発言。
他のメンバーも何の根拠もなくそれを止め、何の根拠もなく思い直す。…なんだこれ。
そして1年5ヵ月後。たった1年5ヶ月で帰って来る。何が変われたんだろうか。
この失敗を経て、ufoテーブルは1年5ヶ月以内に帰ってくることが出来るだろうか?
吉田アミさんなんかに典型だけど、「何かを嫌いっていう時間に好きなものを楽しむ努力をしたい!」みたいな発想がアニメファンや音楽ファンやらマンガファン――要するにサブカルチャー好き全体に広まって行ってる様子なのかしらん。東浩紀さんも昔SFセミナーでトラブルがあったときに「批判がしたけりゃ自分がいないところでやってくれ」みたいなことを言ってましたっけ。なんだかなあ。
たしかに、頭ごなしに駄作認定してネガティブキャンペーンを張るのはよろしくない。そんな暇があったら好きなものを楽しむ努力をした方がいい。しかし分析的に、理由を挙げながら批判(≠批難)をしているものにまで「そんな暇があったら――」と言ってしまうのは精神的ひきこもり症状ではないのかなぁ。そこには成長がない。「成長」という言葉遣いに抵抗があるなら、「変化」と言い換えてもいい。ひとが忙しい毎日の中で、わざわざ時間を割いてサブカルチャーに接するときには、意識的にしろ無意識的にしろ何がしか今の自分からの「変化」を求めているのじゃなかったのかしら。現状維持したい、価値観を自閉したい、似たもの同士で寄り合いたい、という気持ちがサブカルチャーを鑑賞する姿勢として一般化していくのだとしたら、それは悲しいことだとしか僕には思えないのだけれども。
あと、批判的な物言いというのは、必ずしも「俺はお前の好きな○○よりもっと素敵な××を知っている」という優越感ゲームだけから出るものではない、というのはこの場を借りてちょっと書いておきたい。批判的な物言いをするときには、必ずしも具体的な何かが脳裏にあるわけではないのです。自分もまだ見たことがない、いつか見たいと願っている夢想の対象、イデアルな名作を想定して批判する、ということがありうるの。ようするに「ないものねだり」。「ないものねだり」を子供の物言いだと言ってしまうのは簡単で、批判的な物言いを嫌うひとが多い理由の一因もそこにあるのだろうけれど、「ないものねだり」があるカルチャーを前進させたケースも少し歴史を紐解けば多々ある。「ないものねだり」は「ないものねだり」としての機能をこの世界で果たす限りに於いて存在意義がないわけではないのだ。えーと、要するに知識があるから批判するんじゃなくてよくわからん理想を抱えてるから批判するのです。それを「優越感」だと断言されてしまっては辛い。
……あー、オン書きだとぐだぐだになってきたな。ともあれ、批判的な物言いを頭ごなしに嫌うのもなんだし、「目に付かないところでやってよ!ネッ広なんだから!」みたいな物言いを返しちゃうのも虚しいよ、と。そんだけ。
思いつきで煽り蛇足。
そんな「批判されるの嫌」派のみなさんが大好きな『まなびストレート』って、他人とまともにコミュニケーションできない奴が勢いと主人公補正で世界を革命する話だよね。作品内の異物も全部乗り越えられるためのマッチポンプ的存在で、本当にどうしようもないことは作品内に存在してない。なんだかなぁ。『まなび』自体は批判されるべき作品ではないとしても、『まなび』と批判嫌いの「まなびファン」のセット構造はなんだか非常にグロテスクな気がするよ。
芽生がCGを作ってくれた、とまなびとむつきが自然に想像できるのは、リモートでの作業がこの世界観では完全に常識化しているから、と解釈してみる。それならなんで生徒会室に籠もって作業する必要があるのか、という新たな疑問が湧いてきたりもするが。
覗き見に気付いてるかどうかをこの場の判断基準にすると、我々視聴者にとっての倫理観――覗き見行為そのもの――がマイナス要素として働くのでよろしくないと思う。
高校に進学しなくてもいい、むしろ社会人になって自分探しをするほうがかっこいい、とされているこの世界。では高校に通っている人間はどんな奴らか。自分探しをとりあえず先延ばしにしてしまった、「なんとなく」生きてる連中が大半なのではなかろうか(学歴社会がどうなったとかの描写が出てこない点が穴ではあるが)。
こういった思考が流動的でいまひとつ活力に欠ける層には、多少変人で中身空っぽでもパワー全開で見てきたような理想を語る人間というのは相当魅力的に映るのではなかろうかと。
まなびはいわゆる煽動家なのだと思う。次元を超えた煽動が通じないのはある意味当然で、煽動が通じれば、それこそ「まなびストレート!は神アニメ」になるのでまあ妥当な所かなとか。
3話・4話
・心象風景を可視化する演出が、映像的に凝っていればいるほど空回りしているように感じられる。3話のまなびの花火演説にしろ4話の芽生のトラウマ表現にしろ、あまり効果的とは思えない。特に3話、いきなり真夜中に呼び出され、中身のない演説を聞かされた面々がどうしてあのような風景を幻視できるだろう。構造で論理的飛躍をするのであれば、視聴者に対して問答無用のカリスマ性をまなびが帯びていなければならないと思うのだが、そのためのフックが一向に見えてこないので、作中でカリスマ的に演出されればされるほど観ているこちらは冷める。
・4話。脚本が酷い。隠しカメラを通じて芽生が作業風景を覗き観ていた、という事実をまなび・光香・むつきがまだ知らない段階で、芽生がCGを作ってくれた、とまなびとむつきが自然に想像できるのは、思考の流れとして不自然だろう。むつきに一言疑念を抱かせ、それをまなびがいつもの何も考えていない適当な発言で流す、というシークエンスでも挟んであればまだしも。実はまなびは隠しカメラに気がついていたのだろうか。だとしたらどえらいワルなわけで、それはそれで面白いのだが。
・とにかく、「まなび」というキャラクターにまったく魅力が感じられない。とかく合理的思考が幅を利かせがちな現代に対して、無謀な夢を抱くことの魅力、根拠のないエネルギーの発露の素晴らしさを作り手がアピールしたいのはわかるし、私自身も文化を愛するものとして合理的思考の行き過ぎには常に苛立ちを覚えているが、このように稚拙な形で反抗されてもシラケるばかりである。いつまでも全共闘の夢を捨てられない自称「反体制」のおっさんを見ているようだ。
・藍ぽんかわいいよ藍ぽん。藍ぽんの声だけでくやしいけど観続けちゃうよはぁはぁはぁはぁ。
・平野綾は素質はある子だと思うので、誰かきちんと指導してあげて下さい。演技のテンションが一定になってしまっているし、喉に負担のかかりそうな発声をしているので、あんな演じ方ではハルヒバブルが弾けたら早々に潰れてしまうだろうよ。
多分俺、世代的には「第三世代」とか言われる萌えオタクなんだと思うんだけど、オーガスト以降のコンプティークで表紙を飾るようなギャルゲーとか、本編終了後の『ハルヒ』のメディア展開とか、『まなびストレート』とかに嫌悪感しか覚えなくなってしまった。最近。
特に『まなび』はダメ。幼女みたいなキャラデザインで高校生とか、「僕たちこんなに一生懸命アニメ作ってます!」的な丁寧さとか、「ほーら実況スレの住人はここで騒いでねー」みたいなシーンとか、作品にかこつけて「頑張ることの楽しさ」みたいなことをブログで熱弁しているファンとか、全部無理。受け入れられない。
これは多分作品が悪いんじゃないんだろうな。俺が悪いの。きっともう、今を生きるオタクじゃなくなっちゃったんだな俺。昔、心底嫌っていた、旧作のDVDボックスを毎週金曜夕方の石丸電気で会社帰りに買い漁るような、そんなオタクになっちまったんだな。嫌だなあ。嫌だなあ。こんな疎外感は味わいたくなかったなあ。