書いていただいたような方法は、自分の感情を理解するための手法としては頭にありましたが、他者を同じように理解しようというのは新しい発想でした。
ただ、やはりここでわからないのは、なぜ観察結果を言葉で話し合わないのか、ということです。
自分の感情について観察する意義はわかるのですが、だからこそ同じことを相手にも期待している節があり、言葉で全てを伝えられるわけではないにしても伝えられることは伝えあってヒントを出したらいいのではないか?と思うのです。観察に意義があることは間違いありませんが、だからといってそれが話合いをしない理由にはならないのでは?
たとえば自分がカウンセラーのような立場で、相手と非対称な関係にあるのであれば、何度でも観察と試行錯誤を繰り返して辛抱強く…というのも頷ける話なのですが、一般的な人間関係においては「お互いに」が前提だと思います。言葉にせず観察と試行錯誤を、自分もするし相手にも求める、という人は私が知らないだけで相当数いるのでしょうか。
増田さんが今回言葉で説明してくださったおかげで話合い過激派の私にもなんとか(ごく一部は?)理解できてとても有難く思っているのですが、なぜ私の元彼たちはこのように言葉に頼ることをしないのでしょうか…?