解答で「証明」だと言ってるそれを見てもよく理解できないから、先生に訊く。
先生の解説を訊いてもわからない場合もあるが、なんとかわかる場合もある。
先生の解説まで訊いて理解できる場合、「証明」といってるものは実は「証明」じゃなくて、先生の解説という情報も付してやっと「証明」になるのではないか?
なぜ納得できない人がいる説明に「証明」というラベリングを貼ってしまうのか?そこが理解できない。納得できることが証明の要件ではないか。
そして逆に納得できない証明になんの価値があるのか?そこにあるのはせいぜい権威を前提とする押し付けだけじゃないのか?(その卑近な例こそ、学校教育において「証明」を答えだとする押し付けだと思う)
文系か?形式論理でも勉強しろ
じゃあ、勉強した経験も込みで証明なんだろ。 証明文自体それだけでは証明じゃないってことじゃん。
証明の要件は一定の仮定と規則を用いてある命題を導出できることであって、納得感は証明の要件には欠片も含まれないだろ
いや?異端審問の証明ならむしろ事実よりも納得感の方が上回っるだろうし、現代の裁判だって事実とすり合わせるようにはしてるけど結局は裁判官の納得感ありきだよ。 んで証明の本...
じゃあ学術用語に日常語と同じ単語を使うなって言えよ そうは読めないだろ
だから言葉狩りの自覚はあるって書いてるじゃん。
元増田を見て学術用語ではなく日常語の「証明」を指してるとは思わないだろ
なんでも学術用語に日常語と被る言葉がある場合、日常語から言葉を間借りしてもらってるだけだぞ 日常語ベースで問題提起して当然だろ