それは、小説のめり込んで現実が見えなくなって身を滅ぼす人を描いて、教訓的に小説から脱離させるといった作品ではない。
例えるなら、タバコにおける「ニコレット」的な小説を書きたいと考えている。
つまり、薄味な表現にだんだんと慣らしていき、小説的な表現から脱離しやすくするような作品を書きたい。
まあ、それは、表現規制的な世の流れに従えば、あれが描けない、これが描けないといった形で、自然と実現されていくのだろう。
ただそれだけでは、多くの人間に、面白くない小説ばかりなのは表現規制のせいだ、と不満を残すようになる。
だから、表現規制がきつくなる前に、先行的に、小説的な表現から自ら脱離しやすくする小説を書きたいと構想している。
多くの子どもが幼いときの遊びから脱離するのと同じように、人々を小説から脱離させるような作品を書きたいと思っているのだ。
表現規制によって小説を諦める前に、自ら小説から離れるような状況を生む小説を読んでおけば、人々が表現規制の悲しさに悩むことはなくなるはずなのだ。
そう、人々に不満を残さないために、その構想される小説は、小説的表現が薄くありながら、小説として満足できる面白いものでなくてはいけない。
それでいて、なんとなく楽しいと思っている中に「飽き」を生じさせなくてはいけない。
それらはまさに、子どもの成長による遊びからの脱離と同じもので、きっと、その小説も同じように、
①読者の人間的成長を進ませる一方で、②飽きを生じるような繰り返しや単純さなどがあるようなものなのだろう。
繰り返すが、表現規制によって満足な小説が描けなくなる前に、小説からの脱離を促すような小説を書くことは、人々による表現規制への恨みを貯めないように必要な段階だと思う。
表現規制の前に、人々が表現に対する興味を失うような小説を描く必要があると思う。
👦「なんからのべってのがそうらしいぜ!」
無意味だな。 その構造はすでに「モバイルゲームのシナリオ」という形で完全に実装されているからだ。 君の構造が不完全なのは、小説という枠内だけでそれが達成できると誤解してい...
面白く無い小説に、ニーズは無いね。
素晴らしい。 是非読みたい。