2021-08-30

パラリンピックを見ていて悲しくなった

パラリンピックで体の欠損がある選手が頑張っているが、体の欠損箇所や欠損具合によって水の抵抗身体に掛かる負担が違うように見える。団体競技場合、個々人の違いが影響ないようにルールが作られているように見えるのだけど、個人競技場合クラス分けはされているものの、個々人の違いが順位に影響を与えてる気がする。

順位意味はないのではないか

1位の選手と8位の選手の違いが、努力の差でも環境の差でも無く、欠損の影響による空気や水の抵抗の差だった場合、1位と8位という順位意味が無いのではないだろうか。

どちらの選手努力したのは事実だろう。本人が変えられない事柄で8位だったのなら1位と比較する必要は無く、素晴らしい選手と言えるのではないだろうか。

順位をつけるとより努力する人間の性(さが)が悲しい

選手自己ベストを目指すだけでなく一つでも良い順位を取るために努力をしていると思う。ライバルいるか努力をする、勝ちたいか努力するというのは間違いではない。

人間賛歌のような全員が素晴らしいなどと言い、順位をつけなくなったら、今までと同じだけ頑張れる選手は少ないのではないだろうか。

周りと比較するのは人の性だ。だが、努力で得られた成果は周りとは関係ない。(ライバルに勝つために100の努力をした場合自分を追い込むのが好きという理由ライバル関係なく100の努力をした場合で体に付く筋肉や計測される記録に違いはないだろう)

周りの状況に影響を受け自身の行動を決めていると思うと、人とはそれほど自立したものではない気がしてきて悲しくなった

  • 生まれつきの肉体に制限を受けるのはオリンピックも同じなんだが オリンピック見てた時もちゃんと悲しくなったか?

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