少し前に祖父が亡くなった。
身近な人が亡くなるのはそれが初めてだった。
知らせを聞いたときや葬儀の場などでは悲しさを感じて涙を流した。
そしてニュースなどで著名人の訃報を聞くたびにその時のことを思い出してまた泣いていた。
あれから少し気持ちも落ち着いた今、あの時の自分を思い返して疑問に思ったことがある。
私はなぜ泣いていたのか。
遺品を整理し、やり残したことがあるまま逝った祖父に思いを馳せながら泣いていた。
これらは私が「悲しい」と感じたというより、祖母や祖父の「悲しい」という感情に共感していたのではないか。そう思った。
私と祖父だけの二人だけの関係を考えたとき、楽しかった思い出や怒られた思い出や嫌だなと思った思い出などなどすぐに思い返せる。
会いに行けばいつもいたその姿にもう二度と会えないのだという喪失感はある。
著名人のニュースの件を考えたとき、私はその著名人に対して特に思い入れは無い。中には訃報で初めて名前を聞いた人もいる。
だからきっと私は彼らの死自体には悲しみを感じていなかった、と思う。
それなのに泣いていたのは、彼らの死に寄せられるコメントに共感をしていたからなのではないか。
例え共感であっても私は「悲しい」をもう得ているのか。これから手に入れるのか。
私が共感を覚えた彼らは一体どこで「悲しい」を得たのか。