2019-03-26

好きなパンティーで打線組んだ

セイバーメトリクスによって打線常識は刻一刻と変化していく。

メタゲーム加速の本場サッカーにおいては20年前なら20年かかったレベルの変化が1年おきに起きているとさえ言われている。

そんな時代打線を組むことに意味はあるのだろうか?

スポーツにおいてならば意味はある。

それは勝敗を戦いによって定めるからだ。

しかしそれぞれが思い描く打線像がバベル崩壊した時代において、打線という概念を通してなにかをたとえた所で、それはお互いが背中合わせに壁打ちし合うテニスのようなものではないだろうか。

古代、人は決闘を通して正義を定める事を、「神に委ねる」と呼んだ。

それは各々が心に描く神・正義世界観を、一定ルールある形に再度定めて争えるように再構成していたからその言葉が出たのだ。

今、打線を組むという行為には委ねる神が失われたのだ。

打線は組めない。

組むことに意味がない。

誰かが組んだ打線を見て誰も「わかる」と言えない時代なのだから

バベルは、崩れ去った。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん