2018-09-29

「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ」言説について

正しい,というか建設的だしそっちのほうがみんな気分がいいであろうことは理解できる。

この世のすべての人が他人を腐すことなく「何が好きか」で自分を語るようになったら世の中はたいそうハッピーになるだろう。

ただ,僕は(僕だけじゃないことを祈る)この言説を様々なところで目にするたびになんとも言えず居心地の悪い気分になってしまうのだ。

おそらく,「これまでにどんな風に自分デザインしてきた自覚があるのか」という自意識問題だろう。

思えば,僕はこれまでの人生でひたすらに「こんな風にはなりたくない」を繰り返しながら自分を形作ってきた。

ヒステリック母親に,大嫌いだった生物教師に,恋愛以外に話すことが何もない軽薄さに,満員電車に揺られるサラリーマンネクタイに。

「何が嫌いか」で自分デザインしてきたのだから当然だ。「何が好きか」の上にいない自分自身を語ることは出来ない。

僕はそんな沢山の「嫌い」の上に成立している自分が中々気に入っている。

子どもの頃なりたかったものにはなれなかったけれど,子どもの頃からなりたくなかったものにはならずに済んでいる。

少ないけれど気の合う友達もいる。

一体世の中に「何が好きか」で自分を語れる人がどのくらいいるのだろうか。

疑問だし不安だ。

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