能楽の四座一流のひとつ、喜多流の流祖。
1586年生まれ。堺の目医者の子と伝わる。
七歳のときに秀吉の前で立派な能を舞ってみせ、
「七つ太夫」と称賛されたのがそのまま呼称となった。
その後も豊臣家との結びつきが強く、
大坂の陣に参陣して真田幸村のもとで戦ったという。
戦後は浪人となっていたが、黒田家などの推挙により能役者として復帰した。
特に秀忠からは寵愛を受け、能楽の第一人者として活躍するうちに、
所属していた金剛座からの独立を認められて
「北」「喜多」を名乗るようになり「喜多流」を創始した。
秀忠という最大の後ろ盾を亡くしたあとは、周囲の嫉妬に苛まれ、
秘曲「関寺小町」を上演したときには、難癖をつけられて謹慎を命じられた。
このときは伊達政宗が家光に掛け合って赦免させたという。
また、上洛途中の桑名で馬子を殴って死なせてしまったことから、
桑名藩主・松平定綱と諍いを起こしている。
次第に後継者の正能に出番を譲ることとなり、1651年に引退、1653年に亡くなった。
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