言葉には鮮度がある。
たとえば会話なら言葉を発した瞬間、聞いた瞬間がもっとも鮮度が高いと思う。
そして当然ながら鮮度というのは落ちる。
時間が経てばそのとき言葉と共にでた感情の鮮度も、良くも悪くもその時のままというわけではない。
数日前、私は恋人と別れた。
数カ月前、当時感じていた彼への不満やいら立ちをブログに零したことがあり、その一文が彼の目に触れてしまったのだ。
ブログのスクショをとり私に見せ「こんな風に思ってたんだ」と、その目には失望の色が浮かんでいた。
正直書いたことすら忘れていた私は、これはこのブログを書いた当時の感情であって今そう思っているわけではない、と弁明したが彼にその言葉は届かなかった。
当然だ。私の中ではとっくに鮮度切れのブログの内容でも、彼にとっては今まさに新鮮な言葉として入ってきたのだから。
ツイッターなどを見ていても数年前のツイートなどが急にリツイートされたり、話題になったりする。
そんなときツイートした本人は「随分昔のツイートなのに」と思うが、初めてその内容を目にした人にとっては今が一番鮮度が高いのだから仕方がない。
昔の作家の本などが現代にもずっと残っているのも同じ仕組みだろう。
今回の事で一番傷ついたのは彼なのだが、改めて自分の負の感情を目にしたことにより当時の私にも嫌気がさし、しばらく自己嫌悪に陥った。
鮮度切れだと思った言葉は、当時とは別な感情を伴って私の中に入ってきた。
そのブログの件がなくても終わってたように思う また、ブログ書いた時点で彼がいつか読むかも、と無自覚的に増田は認識してたと思う ということを増田もわかってるように思う