どこかで戦争が起きたとき。どこかで大災害が起きたとき。どこかで事件が起きたとき。誰かが事故に遭ったとき。
僕たちは思う、「ああ、かわいそうに」「そうだ、寄附をしよう」
ある出来事によって、突然揺さぶられた心の扱い方に困ってしまう。
しかし、一か月後、いや一週間後、もしかしたら三日後までに僕たちの頭の中は日常の喧騒でいっぱいいっぱいになり、遠い遠い場所での出来事など頭の片隅に追いやられてしまう。
これでは、他人の悲しみを消費しているだけではないだろうか。
それは決して「悲しい」というわけではない。悲しい映画を見て涙を流すようなそんなものではないだろうか。
結局、人は危機感を感じない限り行動を起こすことはできない。自分の「世界」が脅かされない限り、「世界」を変えようとは思わないはずだ。
しかし、遠い遠い誰かの悲しみを理解することなどできやしない。
いや、できないのであれば、悲しみを理解する必要はないのかもしれない。
僕らは日々、「悲しみ」や「喜び」、「感動」を消費しながら生きている。
いつの日か、自分の世界の一部となり得る解決すべき問題に出会えるように、虚無感ややるせなさを感じても、外からの感情を消費し続けることが必要ではないだろうか。