2014-04-04

健常者は自分たちが振るう暴力自覚的になって欲しい。という話

「障害」は、すごく社会的ものだ。というのも、規範や仕組みは多数派が多数派のために作ったもので、それに適応できない人間障害者と呼ばれているからだ。

腕がなかったり、目が見えなかったり、集中できなかったりと、「障害」にもいろいろ種類がある。だけど、そのどれもが多数派のルール適応できない特性っていう点では共通している。誰しもが持ってる個性の中で、多数派のルールで戦うには不利なものを持ってしまった人間が「障害者」なんだ。

要するに、「健常者」のつくるルールが「障害者」を生み出してるわけだ。そして、社会は「健常者」の作ったルールの上で動いているから、「障害者」は必死になって「健常者」に近づこうとど努力するハメになる。

障害者障害者性っていうのは、症状そのものにあるんじゃない。だけど、健常者の多くは障害を克服すること、するために努力することを当たり前に思っている節があるし、場合によっては、強いられた努力美談として消費する。

社会は「健常者」の規範で動いている。「健常者」が自分たちの規範でもって「障害者」を生産しておきながら、時には同情し、時には「勇気をもらった」だのなんだの言って、「障害者」が「健常者」のルールに従うことを美談化する。

障害者」が「健常者」に近づくために努力を強いられる、その理不尽さに気が付いてくれ。その痛みに気が付いてくれ。頼むから健常者は自分たちがどれほど暴力を振るっているのか、自覚的になってくれ。障害は個性だなんて甘っちょろいお題目を唱えるつもりはない。ただ、痛みを知ってほしい。

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