「障害」は、すごく社会的なものだ。というのも、規範や仕組みは多数派が多数派のために作ったもので、それに適応できない人間が障害者と呼ばれているからだ。
腕がなかったり、目が見えなかったり、集中できなかったりと、「障害」にもいろいろ種類がある。だけど、そのどれもが多数派のルールに適応できない特性っていう点では共通している。誰しもが持ってる個性の中で、多数派のルールで戦うには不利なものを持ってしまった人間が「障害者」なんだ。
要するに、「健常者」のつくるルールが「障害者」を生み出してるわけだ。そして、社会は「健常者」の作ったルールの上で動いているから、「障害者」は必死になって「健常者」に近づこうとど努力するハメになる。
障害者の障害者性っていうのは、症状そのものにあるんじゃない。だけど、健常者の多くは障害を克服すること、するために努力することを当たり前に思っている節があるし、場合によっては、強いられた努力を美談として消費する。
社会は「健常者」の規範で動いている。「健常者」が自分たちの規範でもって「障害者」を生産しておきながら、時には同情し、時には「勇気をもらった」だのなんだの言って、「障害者」が「健常者」のルールに従うことを美談化する。
「障害者」が「健常者」に近づくために努力を強いられる、その理不尽さに気が付いてくれ。その痛みに気が付いてくれ。頼むから健常者は自分たちがどれほど暴力を振るっているのか、自覚的になってくれ。障害は個性だなんて甘っちょろいお題目を唱えるつもりはない。ただ、痛みを知ってほしい。
障害者は多数派の健常者に無駄なコストを負担させてるよね
こういうの、どんな人間もその障害者の立場になりうることを考えてないんだろうか
そりゃ考えてないだろう。そこまで考えつかないアホはいっぱいいる。
事実の指摘をしただけで発狂する障碍者及び関係者がいるから 呆れられて切り捨てられるんだろうね