ソチ五輪・フィギュア女子シングルフリーにおける浅田真央選手の演技について、「感動した」と無邪気に語っている人たちがいる。
彼・彼女らは浅田選手の演技に感動したのだろうか。それとも物語に感動したのだろうか。
演技に感動したなら、浅田選手と同等かそれ以上の演技を見せたソトニコワ、キム・ヨナ、コストナー選手らの演技にも同様に感動するはずだ。
しかし浅田選手に感動した人たちは、外国人選手の演技には感心や感嘆はしても感動することはない。
彼女たちの物語をよく知らないからだ。彼女たちが味わってきたであろう、挫折や苦労を知らないからだ。
佐村河内守氏は知っていた。
それを売らんがなのための戦略だと非難するのはあまりにも容易い。
彼が意図していようがいまいが、我々は「作品ではなく物語を消費しているだけに過ぎない」と喝破されたに等しいのだ。
それは芸術とスポーツの違いはあれど、今回の浅田選手の物語にも完全に通じる。
ジャンプを2回ミスったことにも気付かず、浅田選手の涙を見て感動した人は佐村河内守氏が突きつけた物語消費の批判を免れないだろう。
だがそれでもいいのかもしれない。
誰かが苦しんでいれば、それを我が事のように感じる能力を有している。
たいていの日本人にとって、浅田真央をはじめとするオリンピック選手の存在とはしょせんお手軽に感情移入できる解りやすいコンテンツにほかならないのだろう。オリンピックを「世...