反グローバリズムで括れるものでもなく、自称のようにファシズムと見るには矛盾が多い。
あえて呼ぶなら、「反ポピュリズム」ではないだろうか。
形骸化し、「草の根」にしろ「人工芝」にしろ、議論を深めるよりは欺き論破することを目指す、
それよりも、まず属する集団を決めるという先入観を脱し、個人の考えを発表し、活動するという行動を勧めているのだ。
山本太郎、雨宮処凛、外山恒一…と例を挙げた左派系の他、右派でも発言力のある人物は、
集団に身を預けることと距離を置き、新しい位置を模索する人ばかりである。
集団のバックアップがないのだから、論理的な「隙」は多くなるが、それでも大樹の陰に寄って発言のインパクトがなくなるより数百倍マシなのだ。
集団への帰属意識の強い人の場合、当人に自覚はなくとも、他者から見れば「集団の末端」と認識され、
個人の意見として受け入れるには抵抗が強いのだろう。