大人の条件とは何だろう。どんなことができれば「大人」と見なされるだろう。条件の1つは、「自分を語れること」ではないだろうか。
流し読みしかしてないけどなんか違うと思うんだよね。
なんだろう。
リンク先の人はこう言う。
思考とは、自分のなかのもう1人の自分と語り合うことをいう。言葉を覚えた人間は、もはや1人にはなれない。言葉を発する自分と、言葉を受ける自分とがいるからだ。
ああこれだ。この前提のスジが悪いんだ。
これってまさに「大人」になりたい「子供」の実感だべさ。
だって「発した言葉」と「受けた言葉」のギャップに悩む時期こそ「思春期」じゃん。
そしてもう一人、
その三者のせめぎ合いが思考。こう前提を変えたらどうでしょう。
ちなみに①②は③に従属する存在ではないところがポイントです。
これを文章を書くときに準えれば、
「①語り手」と
「②読み手」と
そしてもう一人、
「③書き手」ということになるね。
で、「書き手」と「語り手」がしっかり分離できているのが「大人」。
「語り手」と「読み手」の分離なんて言葉覚えたての小学校の低学年でもやってるもんね。
だいたいさ、「書き手」と「語り手」が同化しちゃってる文章って「醜い」
「醜い」が言い過ぎなら「恥ずかしい」
例えどんなすばらしげな内容が語られててもさ。
んでもって「書き手」が「語り手」を制御しきっている文章は「つまんない」
ライフハック系の記事なんかは大抵そうじゃないっすか。
「書き手」の制御を超える「語り手」が文章のなかに立ち現れて、
「書き手」と「読み手」の態度を一気に更新させちゃう瞬間みたいなのが垣間見えるのが
感動的な文章ってもんだったりするんだけど、これはなかなか狙ってできるもんでもない。
美しい文章は書き手の意思を超えたところに出現する。まあそれは別のハナシ。
大人の条件とは何だろう、どんなことができれば「大人」と見なされるだろう。条件の1つは『「語る自分」を戦略的に制御できること』ではないだろうか。
・・・つまんねえ結論だな。おい。
まあ、結論がつまんないのは問いがつまんないせいだってことで。
http://anond.hatelabo.jp/20130225125800 この記事はもっと評価されるべきだが、評価するとでまこきに注目行くだけだからやっぱり埋もれてていいよ