子供の頃、私はたくさんの習い事をした。しかしそれらは、何一つモノにはならなかった。
やりたくないピアノ、やりたくない体操、やりたくない習字… 全て嫌々やっていたので、身につかなかったのも当然だろう。
頭の悪かった私は、塾やそろばんにも通わされた。しかしそこでも嫌々座っていただけの私は、何も習得する事は出来なかった。
あきらかに素養が無かった私に、なぜ母はあんなにも色々な習い事をさせていたのだろうか?
それは「娘のため」ではなかったと思う。
母は娘を何者かに育て上げ、それによって自身の遺伝子の優秀さを証明したかったのだと思う。
子供の頃の母は、貧しく、習い事など何もしていなかったらしい。貧しかった母は、平凡な学校を卒業し、平凡な就職をし、平凡な家庭を持った。
しかし母は、チャンスさえ与えられれば自分が何者かになれる素養があると信じていた。自分は本当は特別な人間だという確信。それを証明するのが、自分の娘の存在だったのだ。
私の娘なら、ピアノを習えば世界的なピアニストになるかもれしれない
そんな期待が、娘に次から次へと習い後をさせる原動力になったのだろう。
娘を憎むようになったのだ。期待が過剰だっただけに、その反動も大きかった。期待を裏切った私は、それはそれは母に辛く当られた。まさに、身内ならではの愛憎劇である。
幸い私には出来の良い弟がいたので、それによって母の矜持は保たれていたようだ。
「娘は自分の優秀な遺伝子を受け継げなかったが、息子は自分の優秀な遺伝子を受け継いだ。不出来な娘は自分の分身ではない。優秀な息子こそが自分の分身だ。息子によって自分の遺伝子の優秀さが証明された」これが母が子育てで得た結論である。
私の母は極端だと思うが、親というものは多少なりとも自分の子供を自慢したいと考えているのではないだろうか。
優秀な子供や美しい子供を自慢したいという心理は、自身の遺伝子の優秀さを自慢したいというエゴに繋がっているのではないかと思う。
親達は口をそろえて「子供のため」と謳うのだが、私の考えは穿ちすぎなのだろうか。