こんなのばっかりだ。ブクマも同じ。建設的な意見を言うと寄ってたかってつぶしたがる。努力を否定する。
なぜなんだろう、と不思議でならなかった。Blogって、相互理解のツールじゃなかったのか?なぜ、上昇や努力を志向するブロガーの声がかき消されて、鬱陶しいドロドロとした非行動志向ばかりが幅を利かせるのか。
前向きな奴、上昇志向の奴は理念を練るフェーズが終わったら「口よりも手や体を動かす」って言う単純なことが原因だとやっと分かってきた。本当に結果を出したがる奴らは、座ったままで文句と反論ばかり言ってる奴にさっさと見切りをつけてる。そんな連中と言葉を交わす時間があったら、
どっちか。一方で、手も体も動かさない奴は、次々と標的を探して粘着を続ける。何が起きるか。
そういうこと。ネット以前では前者しかスポットライトが当たらなかった。後者はそもそも前向きな奴にぶつかるのは半径5mくらいだったから、増長しなかった。今は汚い姿をさらしながら結構増えてるな。
かと思ったが、ふつうに「お父さんの」だと思ってたけど、彼のかも知れない、ってことだとおも。
うちの彼氏もおでこがヤバくなってきたらしい。いわれないと分からない程度。なんか、周りを見渡すと、団塊世代のお父さんたちより、息子の方が薄い人が多いような気がする。隔世遺伝かと思ってたけど、もしかして、環境のせい?(ストレスとか、食べ物とか)
少年時代は映画好きだったけど、大人になってから2時間映画みるだけの忍耐力がなくなって、ほとんど映画を見ない日々が続いた(2ちゃんやはてなは2時間以上やってるのにね)。
最近、また映画愛が復活したから2000年代の「これだけは見とけ」って映画はチェックしとこう。
まず…
DJ TROOPERSで隠し曲を出すために、難波で店舗数稼ぎを。
まずは南海難波駅を、戎橋筋方向に歩いて少し。リノ戎橋店。しかし筐体がない…。
柱に掲示がありました。来年の年明けすぐに閉店とのこと。
昭和43年開店。ってことは、インベーダーもないころからあったわけで。40年間おつかれさまとしか言いようがないです。
よしもとアミュージアムは健在でした。
日本橋の電気街に行こう…前に九十九があったところだったか、ATHENA日本橋という店ができてる。2階に、筐体がありました。
なんか馬鹿げた根性論だなー。
あたしはもっと苦労してんだから、あんたらその程度でぎゃあぎゃあいうなって?
あまちゃんってどっちよw あたしが、あたしが、あたしが、って。
あんたより苦労している人なんてごまんといるよw
私は親から虐待も受けてたし苛められてた喪女だけど、「悪いのは俺たちをそのまま受け入れてくれない世間!」と声高に訳ぶ非モテ男がそういうのの被害者だったとはとても思えない。
サバイブしてく過程で世間にそういうの期待するのやめるでしょう普通は。他人に期待したり文句言ったりしたって仕方がないって覚悟決めると思うんだけど。
むしろ挫折を知らない甘ちゃんにしか見えない。
てか非モテコミュニティの目が気になって女にアプローチすること(抜け駆け)もできないとか、それ非モテコミュニティっていう友達がいるんじゃん。カーストカースト言うけどモテ順が低いってだけで、男の中で男からハブにされてる訳じゃないんじゃないの?
こちとらモテ度が低いだけじゃなくて女からはぶられてるっちゅーねん。(男からは存在すら認識されてない)
こっちをバカにしてる女とどう折り合いをつけてくかで神経磨り減らしててそれだけで手一杯だから男のことなんて関知してる余裕もないのに、自分をかまってくれない女の攻撃にいそしめる余裕がある非モテってのは少なくとも男社会の中ではそんなに磨り減ってないんだと思う。
完全に女に絶望してて護身完成とか言ってる忌モテの人は別だけど、自分がモテないのは女のせいとか言ってる非モテはむしろどこ行っても居場所があるのが当たり前だから居場所を作る努力をしたことがなくてそれが女相手に通用しなくて文句言ってるように見える。
本当のところは誰も望んでなどいないが、付き合いで催された忘年会。座敷には20数名の男たちがいて、その中に俺がいた。酒が飲める性質で本当に良かったと思う。ひたすら呑んでさえいれば、箸が転んでも笑えるし、場も切り抜けられる。
便所に向かうとき、間仕切り襖の向こう側を見た。こちらの人数の2倍ほどの若い男女。おそらくどこかの大学のサークルだろう。男女の境がはっきりわかるような席の配置だったが、3度目くらいの小便のとき、その境界はすっかり無くなっていた。ふと奥の方を見ると、笑いながら乳を揉まれている娘がいる。そこは境が無くなる前は男のゾーンだった。
忘年会の後は直帰。電車で向かいの娘を見ながら、酒の勢いで「今ならナンパすればどうにかなるんじゃないか。」などと考える。どうにかなっているのは俺の頭だ。やがて胃の方もどうにかなり、途中下車。駅の便所で口をゆすいでから鏡を見ると、どうしようもない顔が映っていた。しばらくホームのベンチで休み、終電間際の電車で帰った。
最寄り駅に着くと、電車の中では同じく一人だったサラリーマンは妻子に電話をかけており、男の待つ車に向かっている娘もいる。駐輪場は既に閉まっているので、ここからは20分ほど歩かなければならない。
10分ほど歩くともう周囲に人はおらず、家々は完全に寝静まっている。歩きながら今日を振り返っていると、唐突に涙があふれ出た。嗚咽というか、犬が気弱に吠えているような泣き声だった。今も独り。これまでも独り。これからも独り。俺は泣き続けたまま家に着いた。
http://anond.hatelabo.jp/20071228132248
以下のやりとりと
http://anond.hatelabo.jp/20071229012603
これと
ちょっと前のエントリだが
http://d.hatena.ne.jp/Rir6/20071113/1194932107
このエントリ
ここら辺が非常に興味深い
どのエントリも非常にピンポイントに分かりやすくこの辺りの構造を見抜いている。
確かに男の考えを代弁してくれる女というのは男にウケるのだ。その亜種で、男の趣味をする女、男的な思考回路の女というのもウケる。(理系女だとか、男性向け同人誌を描いたり読んだりする女だとか電車が好きな女だとかがその典型例である)
しかし女の考えを代弁してくれる男はウケるかというとそうでもない。(というか、そもそもあまりいない。あまりいないのは、ウケないからなのかどうかは分からないが)フェミ的な発言をしても、女は男と違い、すぐに無条件に持ち上げることはない。寧ろ「私達に一見有利な事を言っているが、何故そんな事を言う?何か裏があるのではないか?」と警戒する場合も多い(それが、生物的な理由か、社会的な理由か、それとも両方か、全く違うものが理由かはわからないが)。はてなダイアリーでたびたび見かける光景だ。それとはまた別に、そもそも、女側の考えを代弁するのは難易度が高い、というのもある。男側の考えは割りと女に比べると「男」で大体まとまっている上、女に比べれば割合単純な所があり、その上一般に女はコミュ能力が高いために「男は私達女がこういったら喜ぶでしょ?」というのが分かりやすい。分かりやすい故に、「そっち」へ転ぶ女が割りといるのだ。チヤホヤされたい女にとって、これほど利用しやすいものもない。ちょっと男的思考を披露してみたり(非スイーツを気取ってみたり、モテないといって見たり、理系だといってみたり【ちなみにこれが本当に男性的思考かどうかは、どうでもよいのである、一般男性が男的思考だと思っているというのが重要なのだ】)男的趣味に走っている(これも同じ)のをアピールしたりすればその種の男はすぐに食いつき、女というだけでチヤホヤしてくれる。こんなに気持ちの良いものもないのである。まあ誰だって、大抵チヤホヤされるというのは気持ちがいいものだ。(それが嫌な人も勿論いたりするが)
まあ、「モテたい理由」はチヤホヤより商業的な目的(読んでて気持ちがいいから皆買っていく。そういう意味ではケータイ小説のようなものだ)が主であろうが。なんであれこれを買う人はケータイ小説を馬鹿にすることは出来まい。はっきり言って同じレベルだ。あるコミュニティの中だけで賞賛されるもの。お約束の男女イメージ。お約束の展開。気持ちの良い展開。
もしかしたら女性中心の社会に世界がなったら、これは逆転するのかもしれない。あるいはそういった社会的なものは関係なく、生物的にそうなっているのかもしれない。それは分からないし、こういったことは気持ちが良いためになかなかその感情を是正する事は難しい。しかし是正しなくてもよいからせめて各々が「自覚」はしてほしいものだと思う。大抵の人は無自覚であるから、尚タチが悪いのだ。自覚をすれば、気持ちよいと感じてもそこで一歩引き冷静に思考することは可能なはずだろう。多くの人が、気持ちよさゆえに思考停止してしまっている。気持ちの良い論理に浸りきり、その論理を肯定するもの同士のぬるま湯につかりきっている。
立ち読みした本に、ネットの掲示板に時間を費やすなど無駄のことだ、とか、匿名ブログなどさっさとやめてしまえ、とか書かれてありました。
理由ももっともらしく書かれてあったので、私ははてどうしたものかと思ったのです。
2チャンネルはやっていませんが、これは見ていますし書いていますしブログもやっています。
ああどうしよう。
実は一度だけ
「じゃいっそのこと付き合っちゃう?(笑)」
それに返された返信はあいまいなもので
かわされちゃいました。
冗談ぽく言い過ぎたのでしょうか?
本気の冗談だと捉えられちゃったのかな。
いつもそんなんばっかりだったもんね。
でも、ごめんなさい。
これ以上は本気すぎるから言えないよ…
いやそんなんにいちいちそんなマジ反応するなよ。
しかもマルチの言葉かよ!そんなもん右から左に受け流すべきものの代表格やんか!
勧める品物によって色々言うんだよ
ベッドだったら「人間、良い睡眠をとってこそ、生きてる意味があるってものですよね」とか言うんだよ。
壺だったら「人間に生まれてきたからには、こうした人類の成した文化を愛でるべきですよね」とか言うんだよ。知らんけど。
そういう種の言葉じゃん。いちいち構うなや。
なんかすげえ眉唾くさいんだが。
逆に、なぜ、「いつか終わりが来るなら、人生には意味がない」と考えるのかを突き詰めてみたらどうか?
そして、君は、「いつか終わりが来るなら意味がない」と考えるのは、人生に対してのみか、それとも全てに対して思うのか?後者であれば、その論法でいけば、人生どころか全ての物には意味がないとなるが、君はそう考えているか?僕としては、全ての物には意味がないのなら、とりたてて今更、意味の無いたくさんのものの中の一つである人生に意味がないと騒ぐ必要もないと思うし、すべてのものに意味がないなら、意味がないという言葉自体の意味がなくなるように思うから、後者はどうかと思うのだが。
そして前者だとする、人生に対してのみそう思うとするならば、何故君は、他の物に対しては思わないのに人生に対してだけは「終わるから意味がない」と考えるのかを突き詰めてみたらどうだろうか?
そうすれば生きる意味が分かるよといいたいのではない。ただそうすれば、何かしらの思考のきっかけにはなるんじゃないかと思うからだ。
個人的には生きる意味というのは特にないとは思う(意味がある、ない、という言葉自体、曖昧すぎて何とも言えないが)。強いて言えば遺伝子を後世へ運ぶ、などか?でもそれを僕が実行しなければいけないギリはない(と遺伝子に言うのもなんだが)から特に気にしてはいない。たまたま僕は、今この時代に、人間という種の生物のもとに生まれてきた生物の一つ、というだけに過ぎない。それ以上の意味も、それ以下の意味も特に無い。と考えている。君と同じように、どうせ100年後には僕はいないのなら、別に今死んだっていいじゃないか、と思う事もある。そしてそれは有る意味真実であるとも思う。確かに今死んだって数十年後寿命で死んだって、何がどう変わるわけでもない。宇宙全体から見たら、違いなどほぼゼロに等しい。
それでも何故今死なずに生きているかというと、死ぬのが怖いのと、「これから何か楽しい事があるかもしれない」という希望があるからだ。
そもそも「今死んだってよくないか」と考える時というのは、少なくとも僕の場合、現在が何も楽しくなく、希望もなかなか見出せない、不安だらけ、そんな精神状態のときだ。要するに、何故死なずに生きているか、という問いに対する、二つの答えのうちの一つが潰えた状態なのだから、必然的に、そんな時は死なずに生きている理由は「死ぬのが怖いから」だけになる。
希望がないと、「今死んだって同じじゃないか」と考える。希望があるなら、今死んだら同じではない。楽しいことがあるかもしれないのにそれを捨ててしまうことになるかもしれないからである。
僕も、今死んでも同じじゃないか、と考えたり、いや、やっぱりまだ生きていたい、どうせ死ぬなら寧ろ逆に、ギリギリまで模索してみたい、と、様々に揺れている。でもそれでいいんじゃないかと思う。別に定まっていなくたっていい。あるいはそのうち定まるかもしれない。あるいは死んでしまうかもしれない。それはそれで、僕はいいんじゃないかと思ってる。もし自分が本当に希望をなくして、死んでもいい、と心から思えるようになったならば、(今のところそれはまだない、なんだかんだ「死にたい」とか言いつつも、実際に死ぬ事を考えてみると「それならまだ、あれを腹いっぱい食べて、あそこへ旅行へ行きたい。それにやっぱりまだしたいことがある」などと現世に未練たらたらで死ぬ気がゼロな自分に気がつく)それはそれでいいんじゃないか。そういう時が来たなら、それは僕にとっては確かに本当に生きる意味がなくなったのだから、死ねばいいと思っている。しかしまだそれが来ていない今は、とにかく希望に向かい邁進するしかないだろうと思っている。
逆に言えば、本当に自分で死ぬならば、その希望を一切無くした状態で死なねばならないと思っている。少々危険かもしれないが、例えば君も、どう生きればいいかわからないのなら、いっそ逆に、死ぬ為に、今の希望を全て潰していき(片っ端から絶望していくという意味じゃなく、やり遂げてしまう、あるいはやり遂げられずとも自分の出来るところまでやって諦めるという意味である)、生きる意味を無くすまで生きよう、死ぬ為に頑張ろうとしてもいいのではないか。それをしていたら、また思うところが変わるかもしれない。死ぬのを目標にするのもありなんじゃないか。それで実際にやり遂げて死んだとしても、それはそれでいい。
昔、遠い友人に化粧品売る系のマルチに勧誘されかけたときの決め台詞「女ならキレイになりたいって思うでしょう?」の目の輝きのあまりの恐ろしさに、「いや、別に」って答えたことがある。その後の驚き顔をいつまでも忘れられない。いやはや、あきらめてくれて助かった。
だが、そのとき即答しまった台詞で、自分に言霊をかけてしまった気がする。
女を捨ててる訳じゃないけど、「キレイになる」を人生のプライオリティNo.1にできるスイーツにはなれなくなった。
見た目なんて人に不快感を与えない程度でいいんじゃないかと思うけど、その「不快感を与えないレベル」に達するのも化粧が含まれてたり結構めんどうでアレでナニです。
確かに意味はあまりないかもなあ。以下、個人的な話ね。
「死にたくない」というのと「どうせ死ぬんだから」は同居している。
どちらかだけが自分の意思であるというわけではない。
人生において落ちるところまで落ちたとき、例えば、何かの拍子に飯を食うことすら面倒くさくなって
布団の中でぐだぐだしていると、早くも2日目くらいで「やべ本当に死ぬんじゃないか」って危険を感じて、
仕方なく死にそうな顔でコンビニに行ったりする、
思春期を迎えたばかりの頃、覚えたてのオナニーに「これが生きてるってことなのか!」というくらいの
感動を得て、1日に6回、7回射精をするうちに、脳の方はまだ行ける、行くぜって指令を出しているのに、
脳内をめぐるべく血流の方が減ってきてしまって、意識が朦朧としてきて身の危険を感じてしまう、
そんな繰り返しに人生が似ているんだと思うな。
「死にたくない」と「どうせ死ぬんだから」という2つの意思が、
意外と、本人のあずかり知らないところでバランスしながら回転して、
その結果として、何となく生き得ているんじゃないかなと思う。
つまり「死にたくない」と「どうせ死ぬんだから」の両方がないと、回っていかないのではないかな。
そうやって回ることが、「生きる」ということ?違うかな。
http://anond.hatelabo.jp/20071229004611
最低でもその部分は本質ではない。
幼少期から思春期にかけていじめられ続けたとか親から虐待され続けていた奴が非モテの中の比率の大半を占めてると思う。
で、いじめの場合だといじめた側はトットと彼氏彼女作ったりとっかえひっかえやって世の中うまく渡ってる。
自分たちは彼らにいじめられてぐちゃぐちゃにされたのから立ち直れなくなってる間にぐちゃぐちゃにした側はいい思いばかりしている。
世間から置き去りにされてる自分らはなんなんだ?!
いじめにしても虐待にしても、そういうルサンチマンを持ってしまった所から這い上がるのには、日本は要求される自己責任が厳しすぎる。
今でも「いじめられるのはいじめられた側が全部悪い」って暴論が世間でまかり通ってるような土地柄だから仕方ないけど。
最近やっと公には言われなくなったけど、実際には「虐待を受けた子供は虐待されるだけの因業を背負っている」って本気で思ってる人がまだまだいるし、虐待された側もそういうのを運命みたくとらえて、その泥沼にはまったら簡単に這い上がれないでいる。
>の話しを聞いてると、気持ちの中に「相手の人格」ってのが、
>全くないんですよね。
当たり前だ。
人を思いやることの初めの一歩を歩むべき時に、他人に自分の人格を踏みにじられてきたんだから。
イカれちまった自分をなんとか支える事で一杯一杯なんだよ。
>「自分はいかに相手に対して思いが強いか」とか
>「自分はいかに相手を思っているか」
>は強いわけだし、一瞬聞こえはいいんだけど
>そこから発展して
>「自分はこんだけ思いが強いのに相手はそうでもなかった」だとか
>「自分はこんだけ思ってたのに相手に裏切られた」だとか
>なんかもう、考え方が自分中心な
>上滑りのいい言葉を出してるだけなんですよ。
今の日本人ってそこにしかアイデンティティを持てない人が大半じゃないですか。
特に人の上に立ってる人がそういう考えで自分の考えが絶対的な正義だと叫んでいるのが大半の組織だし、大きな会社や自治体のトップがそういう発言や行為をして、その尻拭いで下がどんだけ迷惑してもその事は大半は知られずに、エラい人がいいこと言った・やったとマスコミが褒め切ってる。
そんな風土で育った奴が、「人を思いやる」なんて簡単にできるのか?
泥沼に堕ちつづけた所からやっと這い上がろうとし始めた自分から見てると、非モテとリア充は、実は紙一重の所にあると思う。
非モテの立場から見ればリア充は大多数の非モテの心を踏みにじって弄んでる存在に見えるけど、リア充の人見ていて思うのは、青年期かそれ以前に心が徹底的に壊されたかどうか以外は非モテとそんなに変わりがない感じがしてる。
リア充の大半は、今の日本の状況と自分とのギャップやギャップからの苦しみを認知出来ないから、非モテの事がわからない。
非モテは、今の日本の状況と自分とのギャップがとてつもなく大きく感じられて、リア充が「なんであんなに楽しそうにやってる」のか自体が理解できない。
今思うのは、誰が不幸で誰が幸せかなんてわかりゃしない。って事。
自分自身は相手がつきやすいつきにくいあたりを基準にカテゴリ分けすれば明らかに非モテなんだけど、今まで書いたような非モテの泥沼から這い上がり始めたら、次にどうすればいいのか全くわからない。
人とどういう風に接すればいいのかわからない。自信が持てない。
で、多分、それは人付き合いを学ぶべき時期にいじめとか家庭の不和とかで一人で生きていかないといけないと追い込まれて人を見ることが出来なくて、人を見ることが出きることを過度に理想化してしまったツケなんだろうな…とか思って足掻いてる。
どこで非モテが議論されているのかは知らないのだけれど、まあ多少の集団性があることはわからなくもないが、彼女がいる非モテみたいなのもいるらしいし、非モテの持つメッセージ性は掴みにくいということで、そこいらは非モテ語りする当人に興味を持ったほうがいいんじゃないかと。
呪詛というもの自体他者性を欠いたものであるし、呪詛キモイ!って言ってればそれで済むのだし、ネットが呪詛のループを加速させ何かしかのアプローチを隠蔽する装置ではないかというのはその通りだねとしか言いようがないが、そこでうじうじした人間はいなくなることはないし、いなくなる必要もないと思うので、俺みたいなのはほっといて、人間を揺らぎのある存在として捉えられる素晴らしいおまえはさっさとモテてしまえばいいんだ!俺はちょっとしたことが許せないんだ!モテないのに爽やかなこと言うおまいは結婚して子供産んで死ねばいいのに!妊婦は立って腹筋を鍛えればいいんだ!いやまあ、譲るというか妊婦から逃げるけど。