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はてなキーワード: 四国征伐とは

2023-04-06

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 1576年(天正4年)織田信長中国征伐命を出し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が侵攻してくる。

直家は始め毛利家に付くが、折りをみて信長勢に帰属

その際に人質として嫡子の八郎(秀家)を姫路城秀吉のもとに送り、直家は毛利勢と激しい攻防戦を繰り返すが、1582年(天正10年)病により生涯を閉じる。

これにより秀吉後見人として八郎が家督相続した。秀吉備中高松城攻めに組み込まれたが、八郎は幼少のため叔父宇喜多忠家代理として軍を率いた。

 1582年(天正10年)明智光秀謀反のため本能寺信長が死去する。主人の弔い合戦のため秀吉毛利輝元と和睦し、八郎は備中東部備前美作を領する大大名にの上り毛利家の監視役を務めることとなった。

 1585年(天正13年)年3月、13歳にて元服するにあたり、豊臣秀吉から一字賜って秀家と名乗り、従五位下侍従に叙せられる。同年四国征伐の豊臣軍に随従し、初陣も果たした。

 1586年(天正14年)、前田利家の四女・豪姫を娶る。豪姫は利家夫妻と懇意であった秀吉養女として出され、大切に育てられていた。このため外様ではあるが、秀家は親族のような扱いを受けている。

2023-02-28

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関 盛信(せき もりのぶ)は、戦国から安土桃山時代にかけての武将関一政・関盛吉・関盛忠・関一利・関氏俊の父。妻は蒲生定秀娘。官は中務大輔。安芸守。諱は盛宣とも。

略歴

伊勢国の有力な国人領主伊勢亀山城本拠地としていた。盛信は日野城主・蒲生定秀の娘を娶り、六角氏に属していた。

織田信長伊勢に侵攻してくると、神戸氏等一族が次々と降る中で唯一独立を保っていたが、抗しきれず信長降伏した。神戸信孝に属したが不和であったため信長の怒りを買い、元亀4年(1573年)春に信長から勘当申し伝えられ、神戸具盛と同様に蒲生賢秀に身柄を預けられ、近江国日野城幽閉された。

だが行動が束縛されていた訳ではなく、天正2年(1574年)8月越前から逃亡して甲賀郡に入ろうとした樋口直房を討ち取り、その功を信長から褒められている(関文書)。しかしこの功績だけでは許されず、天正10年(1582年)に信孝が四国征伐総大将として大坂へ出征すると、盛信もようやく許されて亀山城に戻った。

信長死後は信孝を離れ、羽柴秀吉の家臣となる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの際は居城亀山城滝川一益に落とされたが後に奪還し、亀山城主として蒲生氏郷与力大名となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどにも参戦した。晩年は万鉄と号し、家督関一政に譲っていた。文禄2年(1593年)に奥州白河で死去。

2022-06-18

本能寺の変について個人的考察

当時信長の頭の中には、東国東北徳川家康に、

中国九州羽柴秀吉に任せる構想があったらしい。

そして柴田勝家上杉の抑えで北陸方面を。

すると秀吉と同勢力もつ光秀はどこに置くかということになるが、

光秀本人は、もし京都近辺の坂本城丹波亀山城を召し上げられるのであれば

四国征伐希望していたらしい。

しかにこの方法であれば4人の有力大名が均等に分散できる。

しか信長は光秀に秀吉の部下となることを命じた。

その時点では中国平定が目前になっており、

中国を光秀、九州をそのまま秀吉に当たらせるつもりだったのだろう。

しかし光秀はすでに60歳を超えていたといわれ、

当時の平均寿命からすれば老人である

そのような人間中央を外れ、百姓出身秀吉の下につけ、

という命令はもはや限界があったのだろう。

実際、本能寺の変の後に自分の味方をするような事前調略は皆無であり、

衝動的な行動だったことがわかる。

もし信長四国方面に「切り取り次第」を命じていたら、

本能寺の変は起きず、長曾我部は光秀が平定し、

数年後には秀吉九州島津を平定していただろう。

あるいは、中国担当を光秀と正式に交代させておけばよかったと思われる。

ちょっとした命令の仕方ですべてがくるってしまったのかもしれない。

 
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