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2023-04-06

宇喜多秀家ってなんで五大老の一人に選ばれたの?

徳川→当然 前田織田政権からの重鎮 毛利西国最有力 上杉越後の龍の後継だしわかる

喜多→えっ誰君??

 

マジで急に現れた感がすごい。バランス的に西からもう一人選ぶにしても島津だろ。せめて長宗我部

東なら伊達がいるし、佐竹とかもいるじゃん。

子飼い福島ダブル加藤黒田細川あたりから選んだってよかったじゃん。なんなら幽斎でも。

喜多ってマジで誰なのよ。誰が秀吉に推薦したのよ。そんで何が秀吉眼鏡にかなってオーディション通ったのよ。

戦国ガチ勢教えてください。

 

ちなみにChatGPTの答え

質問宇喜多秀家は、島津氏や伊達氏などの有力大名をおさえてなぜ五大老の一人に選ばれたのでしょうか?

GPT宇喜多秀家は、豊臣秀吉が行った天下分け目の戦いであ山崎の戦い賤ヶ岳の戦いなどに参加し、功績を挙げました。そのため、秀吉からの信頼が厚く、豊臣政権下において重要役割を果たすことができました。

また、宇喜多秀家は、豊臣秀吉に対して忠誠心が強く、秀吉命令には絶対に背かなかったことが知られています。そのため、秀吉からの信任も厚く、五大老の一人に選ばれることができたとされています

さらに、宇喜多秀家は、紀州征伐や文禄・慶長の役など、豊臣政権重要な戦役に参加し、活躍したこと評価されたとも言われています

以上のように、宇喜多秀家秀吉からの信頼が厚く、忠誠心が強く、また多くの戦功を挙げたことが理由として挙げられます

 

嘘ばっかじゃねーかChatGPT

2023-02-28

anond:20230228002530

関 盛信(せき もりのぶ)は、戦国から安土桃山時代にかけての武将関一政・関盛吉・関盛忠・関一利・関氏俊の父。妻は蒲生定秀娘。官は中務大輔。安芸守。諱は盛宣とも。

略歴

伊勢国の有力な国人領主伊勢亀山城本拠地としていた。盛信は日野城主・蒲生定秀の娘を娶り、六角氏に属していた。

織田信長伊勢に侵攻してくると、神戸氏等一族が次々と降る中で唯一独立を保っていたが、抗しきれず信長降伏した。神戸信孝に属したが不和であったため信長の怒りを買い、元亀4年(1573年)春に信長から勘当申し伝えられ、神戸具盛と同様に蒲生賢秀に身柄を預けられ、近江国日野城幽閉された。

だが行動が束縛されていた訳ではなく、天正2年(1574年)8月越前から逃亡して甲賀郡に入ろうとした樋口直房を討ち取り、その功を信長から褒められている(関文書)。しかしこの功績だけでは許されず、天正10年(1582年)に信孝が四国征伐総大将として大坂へ出征すると、盛信もようやく許されて亀山城に戻った。

信長死後は信孝を離れ、羽柴秀吉の家臣となる。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの際は居城亀山城滝川一益に落とされたが後に奪還し、亀山城主として蒲生氏郷与力大名となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いなどにも参戦した。晩年は万鉄と号し、家督関一政に譲っていた。文禄2年(1593年)に奥州白河で死去。

2023-02-17

anond:20230217133512

丹羽 長重(にわ ながしげ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名丹羽長秀の長男

生涯

元亀2年(1571年)、織田氏の家臣・丹羽長秀の長男として誕生

主君織田信長の死後は、父・長秀と共に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い(病床にあった父の代理)に出陣した。

2020-08-12

anond:20200811170757

西(南)側勝利

神武東征(日向挙兵して大和征服する)

壬申の乱吉野挙兵して近江朝廷を倒す)

元弘の乱山城大和河内などで挙兵して鎌倉幕府を倒す)

山崎の戦い備中から駆け戻って天王山明智光秀を倒す)

賤ヶ岳の戦い(京から出兵して越前から出てきた柴田勝家を倒す)

戊辰戦争薩長挙兵して江戸幕府を倒す)

東(北)側勝利

・治承寿永の乱(伊豆挙兵して京の平氏を倒す)

承久の乱鎌倉から出兵して京の上皇を倒す)

関ヶ原の戦い会津征伐から反転して大坂西軍関ヶ原で破る)

大坂の陣(江戸から出兵して大坂城を落とす)

それ以外(挙兵場所勝敗曖昧

建武の乱(鎌倉挙兵したが一旦敗れて九州で再起)

応仁の乱(ぐだぐだのまま和睦して決着つかず)

小牧長久手の戦い(戦術レベルでは東、戦略レベルでは西が勝利

こんなところじゃねえの。

少なくとも一方的東側が勝ってるとは言い難いわな。

 
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