「科学的判断」という言葉に何とも言えない気持ち悪さを感じる。
調べてみると、論理学における「judgement」の訳語として「判断」という言葉を使うこともあるらしい。まあそう言われると納得もする。
しかしここで言う「判断=judgement」とは、「命題の真偽を判定する」ことを指すのであって、決して「今後の戦略の選定」を指しているのではない。
その意味では、少なくとも「ワクチンの接種を推奨する」ことは「科学的判断」ではない。(念のため、私個人はワクチン接種推奨派である。)
「ワクチン接種は生存率を高める手段として有効である」までが「科学的判断」であり、「だからワクチン接種を推奨する」以降は「政治的判断」である。
「科学的判断」という言葉を好んで用いる人々が、そこを区別できているようには思えない。
このような重箱の隅を突くような議論を持ち出すと、「ワクチン反対派に味方するのか!」と言われそうだが、そうではない。(もう一度言うが、私個人はワクチン接種推奨派である。)
この例に関しては、科学的判断の後にシンプルな「功利主義」を援用すれば「ワクチンの接種を推奨する」という「正しい」結論が導かれるから、たしかに細かいことを気にする必要はないかもしれない。
しかし、そうではない場面は世の中にたくさんあるだろう。
例えば、ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高いという動かぬ事実を前にして、あなたはどのように「判断」するだろうか?
ここでの「科学的判断」とは、「ある特定人種の犯罪検挙率が有意に高い」までである。
そこから安易に「だから特定人種を排除してもよい」と「判断」することは、いわゆる経済的差別と呼ばれるものである。