2018-02-11

生きるのがダルい

「AのためにBは生きる」

「〇〇は良いこと」

「良い」という動詞は二項述語であると思う。なんのため?だとか何に?と書くことが可能からだ。

たまにというかよく、なんで生きるんだろなぁと考えてしまう。もし何かを成し遂げるためならその成し遂げたことは何のため?と問いが続いて、この問答は終わった試しはない。私個人でだめなら人一般で試してみても、人が生きる理由を作るためには、生きることを肯定することに必要な「良い」という二項述語のために人より上位の存在必要となってくる。神?存在非存在証明できない。まあ神みたいな端っこに行きついたとしてもそこで止まる理由さえも見つけないといけないんだけど。

それなら生きる理由別にないんじゃないか、となる、けれど死ぬのは怖い。怖いって表現は適切ではない気がするけれど自分ボキャブラリーでは怖い以外の当てはまる言葉を見つけることはできない。

理由はわからない終わりも見えない人生を生きるのがダルい。生きやすくするルール自分なりに見つけようと思ったけれど人一般の生きる理由が見つからない以上個人のものを見つけることもできない。眉間にひたすら水滴を垂らされる刑を受けている気分だ。

そんな刑を受け続けるのはダルい。何もわからず飯食って勉強して働いてウンコしてセックスして生きていくだけ。気分のいい時はいろいろやって気分の悪い時に反省してそれを考えての無限ループ先読みなさすぎは意味のないことなのかな、私は先を読まないとやってられないよ。

結局、何かと物事を"良い"方向に持っていかなければいけない、という考え方に縛られているのかなぁとここまで書いて思った。良くなくてもいいならどうやって生きていけばいいのだろう。とりあえず生きていけばいいのかな。どこまでダメになろうと自分がそれで納得できるのならいいのだろうか。

多分そうなんだろうな。でも自分は納得できないだろうなぁ。10年後にも何もできない自分辟易とするのだろう。

生活はまだできそうにない。

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